【東松浦郡相知町萩平】

 

佐賀県現地(萩平)の調査 629日(日)

調査者:1LA97197野方洋助、

1LA97208  原 健洋

 

 

聞き取りを行った住民の方の名前と生年月日

仁部保人さん(昭和25年生まれ)

黒仁田(名前不詳)さん(大正46月生まれ)

秀島 勲さん(昭和196月生まれ)

 

 

相知町

萩平

しこ名(カタカナ)一覧

〔※下線箇所は原稿では下点になっている:入力者注〕

ゴロウコバ(五郎古場)、ムランコバ(村ん古場)

ナガオサ、モクダニ(木谷)、カブ

ミョウジンヤマノタンナカ(明神山の田ん中)

シリグサレ(尻腐れ)、ク)ノハナ(くつ(そ)の花)

ハギダイウエンキレ(萩台上ん切れ)

ハギダイシタンキレ(萩台下ん切れ)

テンジンヤマ(天神山)、クジラヤマ(くじら山)

オオダニ(大谷)、ビワダニ(琵琶谷)、フカサゴウ(深砂濠)

ミズグチ(水口)、ミナグチ(みな口)、オトシグチ(落とし口)

田畑

 

小字萩平のうちに

萩台上ん切れ、萩台下ん切れ

五郎古場、ながおさ、木谷

明神山の田ん中

小字黒石原のうちに

くつ(そ)の花、尻腐れ、かぶら(ろ)

ほか

小字萩平のうちに

天神山、くじら山、深砂濠

小字黒岩原のうちに

大谷、琵琶谷

 

相知町

(萩平)

使用している用水の名前

用水源

共有しているほかの村

不明

伊岐佐川井戸

不明

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

農業用水は近くの川からめいめいが勝手に水をひいてきて使っているらしい。しかし、一方では区長さんが掘った井戸から地

下水をポンプで汲み上げて、共同水として使っているという話もある。

その昔、相知町と厳木町との間で水とり合戦があったらしいが、詳細は不明。また、人によっては、水は区長さんがちゃんと配分を考えてくれているので、争い事はなかったとい

う人もいた。

 

 

水利と水利慣行についての補足

  1994年の大旱魃の時には、要所要所からポンプで水を汲み上げたり、井戸から地下水を汲み上げたので、特に水不足で困ったということはなかったらしい。

 

祭祀について

  作礼山にほこらがあり、そこで雨乞いをするらしい。他はこれといって祭祀のことはわからなかった。

 

一日の行動記録及び感想

  まず、バスが相知町へ来た時に、周囲に何もないのでどこへ行っていいのかがわからずに困った。その日は前日に台風が通過したばかりでよく晴れており、日差しが大変強く、とても暑くてのどが渇いたが、当然コンビニエンスストアどころか、自動販売機すらなく、かなりこたえた。しかも、もっと悪いことには、調査の当日には相知町では「あじさい祭り」なるものが行われており、調査へ行っても、家の人が出ていて話が聞けないことが多かった。仁部忠(?)さんの所に、とても詳しくしこ名や昔のことについて知っている人がいると聞いたが、ちょうど留守で、何度かたずねてみたが結局戻ってこられなかったので、話をきくことができずに残念だった。

調査を開始したのがだいたい午前10時ごろで、調査は23時間もかからずに終わってしまった。

  調査に行って幾つか感じたことがある。失礼ながら、山奥の村なので高齢化が進んでいるのだろうと勝手に思っていたが、若い世代の人々や子供が多く住んでいて驚いた。また、田んぼのしこ名などを実際にきいてみると、同じ名前であるにもかかわらず、地図で示してもらった場所が全く異なっていたりしたことが多かったので困った。また、しこ名の名前や漢字も不確かなものが多くあり、勘で漢字をあてているものもあると思われる。田んぼのしこ名も1つの田を指し示すものではなく、幾つかの田をまとめて呼んでいるといったものが多かった。それに、日頃使っている田んぼの呼び方も「誰々の田ん中」といった具合で使われているらしく、これからしこ名はますます忘れ去られていくものと思われた。

自分が担当になった地域には、家が7軒ほどしかなく、名字にいたっては2種類ほどしかなかった。おそらくは親戚縁者の集まりのようなものだろうと思われる。

水利のこと等について話をうかがった時、人によって話が食い違っていたので、どちらの話が正しいのかよくわからないので、レポートには両方書くことにした。

最後に、突然の来訪にもかかわらず、笑顔で話をしてくださった萩平の人々には感謝しなければならないと思う。

(原 健洋)

 

この調査は、計画段階は別に難しくはないだろうと思っていたが、現地に行って家々をまわってみると、昔の地名について知っている方は思ったよりいらっしゃらず、大変な調査となった。また、調査をさらに困難にしたのが、暑さと山道を登ることからくる疲れだった。しかし、その暑さの中でも腰を曲げて農作業をしておられる方々を見ると、はるかに若いにもかかわらず、暑いとかいったぐちをこぼしている自分が恥ずかしくなった。また、調査をしに訪ねたお宅で、「若いもんは都会に出たら帰ってこん」といっておられたのがとても印象的で、心に残っている。

一日の行動は、午前中にだいたいの家をまわり、午後に残った家をまわった。しこ名について詳しいと教えられた老人が不在だったことは本当に残念だったと思う。家々をまわっている時に、畑や水田を見ていったが、土地の広さに対し働き手が少ないように感じられた。こうして現在の日本の農村を生で見ることにより、現在の日本の農業のかかえる問題、つまり後継者不足や安い外国産の農作物の輸入などといった、今まで教科書など文字で読むことでしかなかったことを身近に感じることができたと思う。

私は前から歴史に興味をもっていた。歴史は主に権力者の近くにしかないものだと思っていたが、決して歴史の表舞台に立つことのない農村にもちゃんと歴史は存在し、現在まで絶えることなく続いていることが、今回わかった。また、歴史を学ぶ上で、本を読んだり、学校の教科書から知識を得るのも大事だが、もっと大事なことは、現地に行き、自分の目でその場所を見て、肌で歴史を感じることだと、今回の調査をして思った。また、調査をして同時に感じたことは、長い間使われていたしこ名が失われつつあり、その土地の歴史の記憶もなくなりつつあることだ。長い間続いてきた歴史であり、何とかして保存をし続けてほしいと思う。

最後に、この調査によって、普段の都会の生活にはない、農村の美しい自然に触れることができて、とてもよかったと思う。この普通の勉強では経験し得なかったことを、今回することができ、自分にとって貴重な経験となった。私はこの調査を行って、ますます歴史を好きになった。あと、調査に快く協力をしてくださった萩平の人達に感謝したいと思う。

(野方洋助)



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