【神埼郡三瀬村柳瀬】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート
S1-18 1TE96544 木寺雅如 S1-18 1TE96545 黒川史郎 聞いた古老 福島旭さん(大正6年2月生まれ) 宮島好さん(大正13年8月生まれ) 園田俊次さん(大正15年11月生まれ) 芹田文男さん(昭和2年9月生まれ) 内村喜市さん(大正2年10月生まれ)
しこ名の一覧 ビシャモンドウ……北にある毘沙門天に由来。 モトヤシキ……よく米がとれる良田(昔から)。 ドジョウダ……同上 テントウダ……昔田んぼがあったが現在は杉山。 イデグチ……ヤシキノハライデ(水路の名前)の入り口であることに由来。 ヤシキノハラ……1番広い田んぼ。 ハッタ……真ん中を水路が通る。 ホリタ……由来不明。 ヨセダ……ここからハッタイデが始まる。 ハッタ山……ハッタの裏にある山(ハッタに由来)。 宮山……玉里神社の裏にあることから付いた。
田について 柳瀬一帯では一つ一つの小さな田んぼに特別なしこ名はついておらず、仕切られた一画一画にしこ名が付いていた。水路のことを「イデ」といい、柳瀬には「ヤシキノハライデと「ハッタイデ」の二つがあった。このうちヤシキノハライデは数百年前から利用されているもので、古老たちもその起源は知らなかった。ハッタイデは、ヤシキノハライデの後に作られたものらしく、山から雨水や湧き水が集まってきて、「ナガタニ」からこの水路は引かれている。この水路一帯は標高がすこしでも高いところでは悪田で、低いところは良田が多いそうだ。また、イデグチは水路の入り口にあたるので水温が低く、収穫量が以前は他の田んぼの3分の1程度しかなかった。現在は品種改良により低温に強い稲ができたので差はないらしい。 水路は共用で水不足ときには、水をめぐって争いがあったらしいが、他の地域より湧水が多いのでさほど激しいものではなかったらしい。 また、一昨年の干ばつの時は、 一部でポンプを用いて鳴瀬川から水を汲み上げた程度でそれほど影響はなかったそうだ。昔は高いところの方が水不足の時は有利であったために、収穫は安定していた。以前の収穫量は平均で1反あたり5俵程度で、最もとれる田では1反あたり8俵くらいとれ、悪田では3俵しかとれなかったところもあった。 当時の肥料は、山から草を刈ってきて石を混ぜたものであったらしい。現在は機械化や品種改良、農薬の使用により1反あたりの平均が7から8俵に増えたが、依然として良田、悪田は存在するようだ。収穫量は増えたが、機械や農薬の使用費が非常に高くつくため、収入面では逆に減っている現状がある。収穫量が増えた要因は、稲の品種改良、作業用機械の導入、発達、圃場整備、農薬の使用などがある。 一昨年のような水不足が、昔に起こったときはコメは作ることができず、小豆や蕎麦を作って生活をしていたそうだ。 以前は冬の間は麦を作っていたが、現在は米の時期と合わないこと、そして専業農家じゃ全くやっていけないという理由で、農作業はせず、出稼ぎに出るらしい。また、国の減反政策により、いちどコメをつくることを止めた田は、再び使うために大規模な整備が必要であるため、もう田んぼとして使うことはないそうだ。
山について 柳瀬に住む人々はそれぞれに山を持つ人が多い。老後のためや、分家が家を建てる時、そして遺産相続の時に山を売ったらしい。昔、木炭が高く売れていたため、国土調査時は木一本でも争っていたそうだが、現在は木炭の需要が減り、また道路に遠い土地の時代の低さなどで、山を持っている価値は全くないそうだ。 また、焼き畑をやっていたことは、古老たちにも語り継がれておらず、大昔にあっていた可能性があるということだけだった。
当日の行動と感想 バスを降りた後、まず民家を探し集めた。民家はバスを降りた場所からわりと近いところにあった。調査の家がどこにあるか分からかったので、 1軒ずつ訪ねてみたが、どの家にもだれもいなかったので、とりあえず先に進むことにした。 途中で農業している人にこちらの趣旨を伝えると、老人たちはゲートボールをしていると教えてくれた。前もって配られていた資料にゲートボールの最中には話しかけないようにと書かれていたので、少し戸惑ったが、優しく迎えてくれた。話によると、一番昔のことを知っているという人が不在ということだったので、ゲートボールをしていた人たちに話を聞くことにした。しかし、あまり時間を取れなかったため、昼食後1軒ずつ訪ねることにした。しかし、午前中に聞いたこととさほど上がらない内容のことしか入手できないまま、時間が過ぎていったが、午前中には不在だった方が音も丁寧に話を聞かせてくれた。話の内容はNO2、NO 3で書いたとおりだが、やはり高齢化社会が進み、過疎化が進行する中、専業農家としては、全くやっていけないことを語ってくれた。 最後に今回の調査において昔の農作業、また、現在の変化、そして、その土地独自の習慣等をわずかながら知ることができ、考えることができたと思う。 |