【神埼郡三瀬村井手野(1)

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE96546 桑田彩

調査対象の村

 三瀬村井手野

古老

 福島弥太郎さん 明治44年生まれ

 

しこ名の一覧

 田

マエダ

  イダ

  ヒガシンサキ

  マガイ

  オセフチ(棚田)

  ウマガタイ

  オケダ

  ヤマガゴウラ

  ヤマガエダ

  上ガタ

  下ガタ

  ニシノゴウ

  イケダ

  ヤカタ

  ボウズウオ

  シタガタ

  マガノエ

  ドジョウダ

  イロウラ

  スギノモト

  ヤシキノバ

  ハッタ(ハルダ)

 山

  ベンジャヤマ

  カナシバヤマ

  ドロヤマ

  ヨシノヤマ

 谷

  ニシノタニ

 

1日の行動

柳瀬の近くでバスを降りた後、私たちの班は一緒に降りた栗原、柳瀬の調査班と共に行動した。最初に付近の住人に聞き込みをしようとしたが、誰もいない。柳瀬を抜けて井手野に入ったところ、ようやく畑仕事をしている40代くらいの女性を見つけた。早速しこ名のことを訪ねてみたら、全く通じない。後々もそうだったが、この辺はしこ名という言葉は使わないそうだ。それでもなんとかしこ名の意味を伝えると、自分は全く知らないが、確かに年のいった人たちはその家独自の田の呼び方を知っているし、実際使っていると教えてくれた。

やはりそういうことは老人を捕まえていくしかなさそうだったが、どうしたことが、この村には全く老人の姿がない。すると、なんとその時間帯(午前11時頃)は村中の老人でゲートボールをしているということだった。

そこで、ゲートボール場の場所を聞いてそこに行ってみると、確かに十数人のお年寄りがプレーを楽しんでいた。あからさらに村の風景にそぐわない我々を見て、向こうは多少驚いたようだったが、休憩小屋のところにいる人に、しこ名(やはりここでは通じなかったが)のことを尋ねてみると、地図を見ながら一生懸命考えてくれた。次第に人が集まってきて、いろんな人が自分の知っているしこ名を親切に教えてくれた。が、どうも教えてくれているものは、あまり広範囲を指すものであり、そこにいるみんなが知っているようなので、もっと細かく区分したカンボの呼び方はないのか尋ねた。すると、そういうのはあるにはあるが、かなりの呼び名なので地図上では教えにくいし、そんなものどうして教える価値あるのかわからないと言われた。が、それが知りたいことなのだと告げると、井手野のことにいちばん詳しい人は弥太郎さんだから、ここには来ていないので彼の家を訪ねるといいと教えてくれた。

生産組合長の福島弥太郎さんの名は私たちの方でも知っていたので、これはかなり有力者と見て早速彼の家を訪ねて井手野に戻った。ここで柳瀬班とは別れた。

福島さんの家を訪ねると、娘(お嫁さん?)や近所の人たちが庭で話をしていた。彼女らにしこ名のこと聞いてみたら、やはり全く知らなかった。弥太郎さんに話を聞きたいと言うと奥から呼んできてくれた。

早速しこ名の話をすると(くどいようだがしこ名では通じない)いろいろな地名を教えてくれたが、やはりそれは先程のゲートボール場できるものと同じ類のもの(実際同じだった)だったので、それとは違う、もっと私的に使っている呼び名を教えてくれるように頼むと、あまりに細かすぎて地図だけでは分かりづらいということで、庭を出て、前の田畑のところで説明をしてくれた。

そこで聞いた名前は、家の前にあるからマエダ(前田)とか東にあるからヒガシンサキ(東ンサキ)など、なるほど実生活に密着したようなものがほとんどだった。 30分近くの時間を割いてもらって沢山の名前を教えてもらった後、われわれは弥太郎さんと別れ、栗原班と共に栗原の地域を調べることにした。余談ではあるが、昼食の時降りた栗原川の水は本当にきれいで、釣りをしている人もいた。何が釣れるのか聞いてみたら、ヤマメはかなり釣れると言っていた。意外と穴場かもしれない。

栗原は人家がなくて、とにかく田んぼだらけだったが、畑仕事をしている人も見えないので、延々 1時間ほども歩き回ったあげく、ようやくあった1軒の家を訪ねた。すると先ほど弥太郎さんの家にあったおばさんが出てきた。栗原のしこ名を知りたいと言うと、自分は知らないので、利次さんに聞くといいと教えてくれた。また余談だが、ここで喉が渇いたので水が欲しいと言うと、水を汲み上げているところに案内してくれた。沢の水をそのまま使っても全然平気で、飲料水も全部沢の水なのだそうだ。水に関しては全く不安はなさそうに見えた。水を飲んだ後、われわれはまた井手野に戻り、園田利次さんを訪ねた。

ちょうど奥さんが出てきて、利次さんは栗原にある畑に出ていて留守だということだった。奥さんにその畑の場所を聞いて再び来た道を引き返した。

途中、先程の奥さんに軽トラックで追い抜かれた。彼女も畑へ向かうのだろうと思い、軽トラックの後を追った。園田さんの畑は山側のかなり深いところにあった。利次さんはさっきゲートボール場で熱心に教えてくれていたお年寄りの1人だった。すでに事情を話してあったので、すんなりしこ名を教えてもらうことができた。

しこ名を教えてくれた後、利次さんは、やはりどうしてこんなもの調べているのか分からないとおっしゃった。今、このしこ名を知っているのはお年寄りだけで、若い人は全く知らないということだった。確かにこの村で会った中年以下と思われる人の中で、しこ名を知っている人は1人もいなかった。それどころか畑に出ている人もほとんどがお年寄りだった。こんな農村でも、確実に農業人口は減っているのだ。もしかしたら人口自体減っているのかもしれない。弥太郎さんも、昔の井手野には多いときには200戸ぐらいあって、お祭りなどとても盛大に行われたものだとつぶやいていた。

利次さんは、その時、畑の土を起こす作業していたのだが、ここも一昨年までは水田だと言った。近年の渇水で、いくつも田を潰して畑にしたのだそうだ。どこにいても水が多くなように見えるこの村でも、渇水の影響は出るのだと知り、最近の異常気象による水不足の深刻さを目の当たりにした感じがした。

そして利次さんと別れたあと、われわれは井手野に戻り、柳瀬はんと合流した。そして1時間ほど車のほとんど通らない国道にみんなで座りこんでバスを待った。

 

感想

バスを降りたとき、まだ日本にもこんなところがあるんだなあと思ってうれしく感じた。おそらく100年前の風景とそう変わりはないのではないだろうか。が、100年前と大きく変わってしまった都会とは逆に、人口はどんどん100年前より減っているというのは、何とも寂しい気持ちがした。が、そういうことはそれほど気に留めず、元気に鍬で畑を耕す老夫婦の姿は悲しさを含んではいるものの、何か心温まる光景だった。

今回はしこ名の調査が目的ではあったが、そんなものより、都会人として生き、これからもおそらくそうやって生きていく私たちが普段全く知ることのない世界に触れることができたということが、何よりの収穫だったように思える。最近の子どもと違って、おばあちゃんの後ろで妙に人見知りをしていた女の子も、大人になったらあの村を出て行ってしまうのだろうか。帰りにその子に再び会った時、手を振ったら、やっぱり恥ずかしそうだったが、じーっとこっちを見つめてくれていた。いい体験をした。



戻る