【神埼郡三瀬村広瀬】

現地調査レポート

1TE96841 門脇和幸

1TE96846 貞松智貴

 

《しこ名一覧》

ハル、オガンツル、セリタンハル、スガフタ、ヤマダノハル、シモゴウラ、ドウメキ、ウーサコ、岸高田原、タノウラ、ウーサコ橋、ハヤマ橋

 

当日、僕らはバスを降りて最初に広瀬地区の一番奥まで行き、それから一軒ずつまわることにした。県道富士中原線から村道広瀬土師線へ入り、延覚寺の右側を抜け、広瀬の十師まで行った。そこまで行くと、畑で農作業をしている人がいたので聞いてみた。マニュアル通りのあいさつを緊張しながらした。しかし、しこ名という言葉を使ったがよくわかってもらえず、複数の田んなかを区別するときの名前と説明したが、それでもよくわかってくれなかった。農作業中ということもあり、あまりしつこく聞くのも失礼かと思い、それ以上聞くのをあきらめ、礼を言って他をあたった。しかし、その後も、34件まわったが、留守だったり、わかってくれなかったりと全然進まなかった。

 そこで僕らは聞き方を変えて、古い地名を聞いてまわることにした。県道まで戻ると材木を切っている人がいたので、その聞き方で聞いてみた。いくつかの地名が出てきたが、それが調査が必要な地名かどうかわからないので、小字名が載っている地図で確認しようとしたが、手違いで脊振村の地図しかなく、確認のしようがなかった。役場に行けば小字名が載っている地図が手に入ると考えた僕らは、昼過ぎにまた来ますと言い、一度国道まで戻った。

 国道まで戻ると、ちょうど昼飯時になり歩きっぱなしで疲れていたので、先に昼食をとり、それから役場へ行った。地図をコピーしてもらうと、少し休んだ後、また広瀬に向かった。今度は、国道側からまわってみた。一軒ずつ聞いてまわった。たいていの家では女性しかおらず、こちらの話を一生懸命に聞いてはくれるが、うちはよそから来たからとか、うちは女やけん、と断られてしまった。仕方ないので近くに詳しい方はいませんかと尋ねてはみたが、教えてもらった家は、留守だったり、もうまわっていたりして、あまり成果はあがらなかった。

 材木を切っていた人のところまで戻ってまた聞いてみた。けっこういろいろ聞けて、延覚寺もまわってはどうかと言われたので、まわることにした。

 延覚寺には、残念ながら年配の方が留守だったが、広瀬から少し行ったところにゲートボール場があって、そこに年配の方が多くいるはずだと教えてもらい、そこへ行ってみた。ちょうどゲームが終わって休憩を入れているところだった。広瀬について詳しい人を尋ねると、一人のおじいさんが出てきて、いろいろと聞いてみた。はじめは、地図上で現在地と方向を理解してもらうのに時間がかかったが、根気よく丁寧に現在地と僕らが何を調べているかを説明したら、いろんな地名が出てきた。地図上で確認できなかったため、先の一覧に入れなかったが、オガノツルと中鶴ともう一つなんとかのつる(地図上で確認できなかったので書き留めることを忘れてしまった)を合わせてミツルということや、調べた地名の中で一つだけちょっと違った地名である、スガフタもここで聞けた。もう少し聞きたかったのだが、もうゲートボールの次のゲームが始まりそうだったので、お礼を言ってそこを離れた。後で気づいたが、このとき、せめてそのおじいさんの名前と生年月日を聞かなければいけないのを忘れていた。

 もうこの時点でまわるところがなくなっていたので、途中でおばさんに中央公民館の教育長さんを訪ねてはどうかと言われたのを思い出し、バスが僕らを拾うところの近くに公民館があることもあって行くことにした。

 バスが来るまで40分ぐらいしかなかったが、とりあえず行ってみた。はじめ教育長さんは出張中ということで、何か資料はないかと探してもらっていたら、ちょうど教育長さんが出張から帰ってきたので聞くことができた。あらかじめ手紙が届いていたので、スムーズに事が運んだ。

広瀬というところは、昔でいう下藤原と言うところの一部で昔からあった地名だが、それが示す場所は今と違うらしい。広瀬は小字の岸高と原ノ谷というところにまたがっている。教育長さんの話の中でおもしろかったのは、逢坂と大佐古についての話だ。どちらもそこではウーサコと読むが、逢坂は昔、大佐古は現在の地名だ。昔、ウーサコという村落は小高い丘の上にあったが、下の鳴瀬川のそばに道ができたため、村落が下の道のそばまで降りていってから逢坂が大佐古となったそうだ。そのときはそれほど深く考えなかったが、後でよく考えると、確かに坂はなくなったが、別に漢字を変える必要はなかったんじゃないかとも思える。それになぜ大佐古という漢字なのだろうか。

バスの時間が気になりだしたので帰ろうかとすると、教育長さんは水利慣行のことは聞かなくていいのかと、僕らが忘れているのを気を利かして教えてくれた。しこ名にばかり気を取られて、僕らは水利のことの調査は少しもしていなかった。それで僕らはバスに乗り遅れても仕方ないと思い、水利のことを聞くことにした。

たいていは、慣例によって水利権が決められているそうだ。広瀬では鳴瀬川の途中にせきをいくつかつくって、そこから水を引くということだった。鳴瀬川のせきは近くを何度も通ったので容易に理解できた。あと、出水と呼ばれるわき水でまかなっているようだった。94年のことを聞いてみたが、その年はあんまりひどくなかったが、十数年前に一度ひどい年があり、出水が止まり、ポンプで吸い上げたが、とにかくそうとうたいへんだったようだ。話の中に我田引水ということわざを使ってうまく説明してくれた。

以上が当日の行動だが、準備不足と自分らの理解不足が悔やまれる。後なって考.えると、もっとうまい説明の仕方があったのではとか、もっと地図上の確認をしっかりしておけばよかったとも思える。大した成果はあがらなかったが、この日ほど地名にこだわった日は今までなかったと思う。



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