【神埼郡三瀬村反田・山中】 歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート
1AG96138 鶴田 綾 1AG96169 西原摩由子 1 調査地域 神埼郡三瀬村反田、山中 2 調査に協力してくれた方々 豆田六三郎さん(大正12年生まれ。72歳) 杠政太さん(大正3年生まれ。81歳) 山本文利さん(大正14年生まれ。71歳) 山本勇さん(大正3年生まれ。82歳) 山本キミエさん(大正14年生まれ。71歳)
しこ名 反田地区……なし(豆田さんの田んぼ) 山中地区 田んぼ ツツミ 寺田 デンブツ デャーラ(平) 信吾田 ウド(宇土) ウドノウラ(宇土の裏) クボタ(久保田) ヒムキ(日向) ナカンガタ(中ンガタ) テランヤシキ(寺ん屋敷) アンノウド ホリキリ(堀切) マルコマ(丸駒) キャーラバル(久良原) クズガウド ナカンハシ(山中橋) 官山(国有林だから) 谷 カネホイ(金堀) カルイダニ(かるい谷) カンノンジ(観音寺)
7月11日木曜日。曇り空の福岡を出発した私たちは三瀬トンネルを抜けて快晴の佐賀県は宿に着いた。見知らぬ土地に降ろされた私たちを待っていたのは、一面を覆う緑の山と田んぼだった。目指すは反田・山中地域である。どの道を行けば良いのかも分からずとりあえず直進した。最初の民家が見えてきた。地図で調べると豆田六三郎さんのお宅のようである。私たちは玄関から声をかけてみた。すると奥の方からおじいさんが1人出てきた。そのおじいさんこそ豆田六三郎さんだった。
<豆田六三郎さん(72歳)の話> 豆田六三郎さんは、大正12年生まれの現在72歳である。農業を始められたのは16歳、昭和15年の頃だという。この地域では比較的若い頃から農業に従事している。昭和18年に戦争に行き、戦争中は奥さんが田んぼを守っていた。昭和22年に戦争から帰ってきて以来、ずっと反田で農業している。つい先日はNHKテレビの取材も受けられ、村ではちょっとした人気者のようだ。 反田地区は、昔は4軒の農家だったそうだが、他の3軒は田を捨てて都会へ出て行き、現在では豆田さんのお宅に今しかない。したがって田んぼは豆田さんの田んぼという風な呼び方をするのだそうだ。つまり、しこ名は無いのだという。今は農作業もほとんどが機械で行われ、人でもいらず、村の人が総出で協力し合って農作業をやると言うこともないので、田んぼをしこ名に呼び合う必要もないのだ。 田んぼに入れる水は、近くの大きな川からパイプで引き上げて行いるそうだ。田んぼのすぐ横にはパイプが巡っていた。地図に貼った写真参照(地図省略:入力者)。数年前の水不足の時は川から10馬力のモーターを使って水を揚げたという。飲み水は地下水を使う。山間部なので山水が川に流れ込み、他の村からのもらい水をするほど水不足にはならないのだそうだ。また、溜池もあり、水に関してはそれほど困りはしないそうだ。 豆田さんは、日本晴れとコシヒカリという品種を作っている。田んぼの場所によって収穫中は違い、下の方(平野部)に行くにつれてたくさん取れるのだそうだ。反田地区では豊作の時で6〜7俵ぐらい、普段は大体5〜6俵取れるという。田に引き入れる川の水がぬるい方がお米にはたくさん取れるのだが、水がぬるいとお米の味が落ちるのだそうだ。冷たい水で作ったお米の方が美味しいのだそうだ。しかし、あまり冷たすぎると今度はお米に実は入らないので、ホースの中に水を通して太陽にホースを開けて水を温めたりもするという。 溜池の水は約13度ぐらいで冷たく、最近ではあまり使わなくなったという。水の温度には結構気を使っているようだ。肥料は農協から買う化学肥料を使っている。戦前(約50年前)は、山の草を取ってきて腐らせた、堆肥というものを使っていたという。肥料と呼べるような肥料は配給だったので、牛や馬や鳥の糞もちろん人の糞も肥料として使っていたそうだ。その頃はこの辺の農家はほとんどみんな牛や馬を買っていたという。自分たちの身の回りにあるものをうまく利用して肥料に当てていたそうだ。 今後の農業の展望としては、豆田さんは田んぼは荒れていくだろうと考えているそうだ。田んぼは荒れて山になるか、もしくは宅地になるだろうと言われた。跡継ぎはいるが会社勤めをしていて、田んぼの仕事はしないのだという。理由は農業は収入が少ないからだそうだ。肥料代や農業機械コンバイン、トラクターなど代金が高いのだという。農業機械などは5年に1回は買い替えが必要だそうだ。つまり、支出がとても大きいのだ。年間200万の収入があっても手元に残るのは約20万ほどだという。反田・山中地区は専業農家が多いそうだが、その息子や娘は会社勤めをする人がほとんどだという。前述の話を聞くとうなずける。5町(15,000坪)ぐらい田んぼを作れば、田んぼだけで生活していくことも可能だそうだが、そんなに広い田んぼを持っている人はまずいないだろうと豆田さんがおっしゃっていた。豆田さんは山を4〜5町、田んぼを1〜6反所有しているそうだが、将来自分の田んぼも宅地になるのではないだろうかとおっしゃっていた。もうすでに宿には福岡から移り住んでる人もいるそうだ。退職金で田舎の土地を買い、家を建て、老後をのんびり過ごすと言う人たちもいるのだろう。
反田地区ではしこ名を調べることができなかったので(しこ名はなかった)、山中地区での調査に期待した。山中地区は20軒以上のお宅があったが、留守のお宅が多かった。前日まで雨が降り続き久しぶりの晴れということもあり、ゲートボールや農作業に忙しかったようである。そんな中4人の方にお話を聞くことができた。 <杠政太さん(81)のお話> 反田、山中地区区長 杠としろうさんの父。区長さんは不在。 杠政太さんは、最初農業ではなく戸畑の旭硝子というところで会社勤めをしていたが、昭和18年に召集。戦争から帰ってくると食糧事情が悪かったこともあり、本格的に農業を始めることにした。その頃の肥料は配給されていた窒素、リン酸、カリの3種類を配合したものや、牛糞、人糞そして桑野の葉や夏の間に刈った山(金山)の草を一冬眠らせて作った堆肥を使用していた。その堆肥を作るための牛は各家庭で飼われていた。 また、その頃は機械コンバインやトラクターなどがなかったため、村での農作業は共同であることが多く、その時牛は犁をひいたりして現在の機械の役目を果たしており、そこでも重宝された。共同作業をやっている頃は田を区別するのに、それぞれの田に呼び名があったが、それはしこ名というより他のある場所や他の持ち主の名を当てているという感じである。 現在は機械の発達により各家庭自分の田を耕すようになり、しこ名のようなもので呼ぶ事は少ないそうである。 機械による農作業は杠さんなど高齢の方にはその操作が難しいため跡継ぎになる方がいらっしゃる家ではもう次の世代に任せているところが多い。息子さん達は専業でやっていくのに1町程度の田では米の価格が安いこともあり、生活が困難なので兼業でやっていくしかないそうだ。また、農作業はかなりの重労働なため、僕現在の1町程度の田の維持が精一杯で、これ以上のかの拡張は考えられないそうだ。 田を捨てて行く人もおり、農業も限界にきていると考えていらっしゃった。杠さんの田では息子さんがおいしいコメを作ろうと一昨年あたりからコシヒカリを作っているが、コメの価格が安く、また数年ごとに買い換える機会が高いため、収入が少なく百姓をしない方がましだが、先祖代々受け継いできた田をやめるわけにはいかないとおっしゃった。 次に2、3年前の渇水対策を聞いてみたところ、今年の春が1番大変だったとおっしゃった。普段は仕事がさばけた人から金山から流れてくる水をモーターでそれぞれ自分の水路に取り込んでも何も問題がなかった。しかし、春は上の方に田を持った人たちがどんどん水を引き込んでしまうため、川(山中川)の下の方に家を持つ人たちまで水が来ず、緊急対策として防火用水用の水なども使用したそうだ。しかし、隣の村から水を貰う事は決してないそうだ。 調査に行った日はちょうど反田、山中地区の減反の話し合いが昼過ぎから役所の人なども来てあり、私たちも興味があって、また村のあらゆる人の意見が聞けると参加(端の方に座らせていただくだけでもできないかと)頼んでみたが、話し合いが何時間続くか分からないことと、その日が久しぶりの快晴で話し合いなどすぐに農作業したいとのことで参加できなかった。減反でどのようになるのか杠さんに尋ねたところ、杠さんの場合、現在持っている1町2反のうちの2反程度減らされるらしい。その2反(減反した所)で野菜など他の作物を作ってよいらしいが、人手が足りないのでそれもできず、この雨荒れ地になっていくであろうとおっしゃった。 山本キミエさん、山本文利さん(71歳)、山本勇さん(82歳)の写真あり。 山本さんたちには多くのしこ名や、谷、橋の名を教えてもらった。家から離れている所にある田にしこ名をつけているらしい。家の近くにある田はその他の持ち主の名をそのまま使用されたそうです。名前の由来はかなり昔からそのように呼ばれたので分からないと、山中地区で一番田のことに詳しい山本勇さんがおっしゃいましたが、一生懸命思い出されて次のことだけ解りました。 ・テランヤシキ……昔、お寺がそこの場所にあったから。 ・堀切……山と山の間を切り開いたところにあるから。 ・官山……国有林の山つまり官公庁管轄の山。 これから山本さんたちの田はどうなるかと尋ねたところ、 文利さん 息子は福岡に行ってしまったので、どうなるか分からない。息子次第。 勇、キミエさん 田んぼという財産がなければ止められるが、昔から続く田んぼがあるから止められない。子供が居ないので、どこからか要旨がくればいいのだが。どこのお宅でもこれからの跡継ぎ問題が深刻みたいでした。
今回反田、山中地区の調査を終えて、本当にしこ名はあるんだなあと改めて思いました。田んぼに1枚1枚名前を付けているなんて面白いと思いました。昔はみんなでお互いに協力しながら田んぼを作っていたから田んぼにも名前が必要だったのだと思います。今では機械がほとんど全部やってくれるので、名前もだんだんと忘れ去られているようでした。お年寄りの人しかしこ名は知らないようでした。また農業をされているのも高齢の方がほとんどで、若い人はみんな会社勤めのようでした。農業は自分の代で終わりだろうと言う人もいて、なんだか寂しそうでした。 また農業が儲からないというのも意外でした。もう少し収入もいいのかと思っていました。若い人たちが農業をやりたがらない理由の一つだろうと思います。日本の農業の高齢化とこれからの農業を考え直すいい機会になったと思います。 最後に調査に協力しくれた5人の方にとても感謝しています。 |