【北波多村山彦】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97066 下釜 和也

1LT97090 段野 雄亮

 

調査地:北波多村山彦

聞き取りした方:山崎 猛夫さん(大正108月生)

 

1.一日の行動記録

私たちは外を歩いたり人に聞いたりして調査をするという体験が初めてで、とても楽しみにしていた。そのため事前の調査も、一週間以上も前から進めており順調だった。がしかし、不運にも私たちが手紙を差し出した小嶋半次さんが、当日どうしても暇が取れず忙しいとのことだった。また、小嶋さんは代わりの古老の方もご存じではなく、私たちは途方に暮れた。そこで当日はぶらぶら歩きながら道行く人に協力を依頼するか、古老の方を聞くかしなければならなかった。

当日福岡は小雨が降っていたが、現地は天候も良く少し蒸し暑かった。北波多村役場付近でバスから降ろされた私たちは、歩いて目的地へ向かった。

まず、ビニールハウスで農作業中のおばあさん(名前は分からない)に尋ねてみた。すると「(当日は)バレーボール大会があっていて、村について詳しそうな人はだれもいない。」と言われた。そして「村の郷土史研究家である山崎猛夫先生が一番詳しいからその人に聞きなさい。」と教えられた。しかしその方は公民館にいらっしゃるということで一旦諦め、他の人にあたることにした。次に80才くらいのおじいさんに尋ねた所やはり山崎さんを教えてもらい、さらに84才の原田稔さんというご老人と川添さんという方を教えてもらった。早速原田さん宅を訪れたが生憎ながら留守。また川添さんもバレーに行っており、帰ってくるのは3時頃だと奥さんから聞いた。そこで仕方なく中央公民館の山崎さんの所しか行く所がなくなってしまった。時計は既に12時をまわっていた。公民館には先生や数人他のチームがいた。そして一緒に山崎さんに話を聞いた。残念ながら時間も少なく山崎先生もかなり話し疲れており、多くを聞くことは不可能だった。話が終わって車でもう一度現地へ行き、残りの時間を過ごした。それから白山神社に行ってみると、なんとあの小嶋さんがそこにいらっしゃった。実は今日は“夏祇禱”という儀式とも重なっていたのだ。

かなり歩いたので疲れてしまい、帰りのバスの中では眠ってしまった。今回の調査は私たちだけかも知れないが、かなり不完全で不運な事が続いたが結構よかったと思う。自分たちとは全く異なる生活を送り、異なる生き方をしてきた村の人々と話ができただけでも、日常ではできないことであり意義あることで、とてもいい経験になった。

 

2.しこ名について

話によると、東松浦地方一帯では「しこ名」という名称を使わないそうだ。特にこれといった名称もなく、使うとしたら「ほのぎ」という言葉だそうだ。この「ほのぎ」には明確な境界というものはなく、私的なものである。

北波多村

山彦

カランサマ、ウシノ久保、ナランサキ、寺屋敷、

甚吉屋敷、ダンダン畑、コシノ久保、デグチ   計8

残念ながら山崎さんにもその正確な位置など全く分からず、村の人に聞いてももう既に忘れ去られたということだ。代わりに山崎さんから聞いた小字名の由来を書いておく。山彦に含まれる小字は村名最小ということで、次の6つである。

・前田原(まえだばる)…寺や豪族の家などの前、という意味。

・桑原(くわばる)…字の通り、かつて桑の木が存在した。

・西平(にしのひらorにしびら)…広く伸び広がることを意味。

・山彦(やまひこorやまびこ)…物の声が対面の山に当たってこたえ響く音波の反射による現象、つまり「やまびこ」から出たもの。それは山の神(山の男)という意味で、「天彦(あまびこ)」とも言う。確かに山彦では「山の神」「山霊」を祀る祠があった。山彦の「彦」は男神への美称、尊称。

・大坪(おおつぼ)…「一の坪」のこと。「坪」という字は、大化改新後の条里制の名残。

・座主(ざす)…かつてこの地区に天台宗系の寺院があったことから。しかしこの寺院がいつ始まったかなど詳しいことは全く分からない。

 

3.水利と水利慣行について

山崎さんによると、特別に用水路に名前がついているわけではないそうだ。山彦には座主に「てらの池(寺の池)」という溜め池があった(今はない)。ほかは溜め池がなく、南の方を流れる田中川から用水路に水を通して使っている。特別な取り決めもないようだ。1994年の大旱魃により水不足になったときは、大きな溜め池から水道管を通して運んできたそうだ。旱魃は何とか防げたが、費用がかなりかかったらしい。

それから別に関係はないが、田中川はかつて蛇行が甚だしかったそうだ。

 

4.古道について

山彦の北の上平野から竹有にかけては、かつて魚を運んだりする古道があったらしいが、山彦にはない。現在は、道は舗装されていてそれを使用するため、古道は自然に忘却される。

 

5.祭祀について

 先に述べたように、山彦という地名から昔からここでは山の神、山霊が祭られていた。明神岩の小祠はその例である。また磨崖仏があり、仏も信仰されているようだ。この磨崖仏は室町中期頃から作られ始めたそうだが、だれがなぜ作ったかは不明だ。(なぜか猿田彦の像もあった。)

 それから、地図に載っている彦山神社は正しくは白山神社で、山彦権現とも称される。ここは大坪の天満宮と桑原の天明神社もともに合祀されている。

 

6.その他

 おばあさんによると「さばくされ岩」という岩があって伝説も残されているそうだが、後で調べると下平野にあったのでそちらの班にまわそう。田んぼの名も特につけられておらず、米の収穫量にも差はないそうだ。ビニールハウスがいくつか立っており、カブを作っていた。屋号や小路(シュウジ)と呼ばれるものもなかった。また、焼き畑、切り畑は戦後はやっていないそうで、山彦以外の村に地名は残っている。(木場、平木場、竹木場など)「入り会い山」というのも以前はあったが、今は個人が所有しているためないそうだ。

 全然関係はないが、一つ気になったのが河童(かっぱ、がわっぱ)のことだ。こごの橋(呼合橋)には河童の石像が作ってあって、名前までついていた。山崎さんに聞いてみると、やはり田中川には河童伝説があって、昔はよく出ていたそうだ。

 

7.あとがき

 今回の調査は時間もなく本当に大変だった。そのためマニュアル通り聞けなかった質問もかなりあり、今回の目的はあまり果たせなかったと後悔している。また機会があったら行って、ゆっくり滞在したいと思う。

 最後に、10人ほどの人たちと数時間しゃべり続けて息を切らしていた山崎先生に、心から感謝したい。



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