【唐津市北波多村徳須恵】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97029 大熊 悠

1LT97033 大村 希

 

調査日:平成976日(日)

お話を伺った方:原口 卓夫さん (昭和711月)

                            原口 ハルエさん (昭和143月)

                            堤 幸久さん (昭和312月)

 

○しこ名

田畑:

徳須恵においては昭和初期という比較的早い時期に圃場整備が行われたため、小字として用いられている以外の田畑の名称というのは現存しない。

ただ、現在小字となっている名称には特徴的なものがあり、その中には数を含む小字などが見られる。

例えば、徳須恵には

 「佐の坪(三の坪)」「四の坪」「五の坪」「十の坪」がある。一坪は約一町を示す。

これは645年の大化の改新における条理制の名残であり、当初は縦・横に三十六の坪があったということである。現在は徳須恵近辺を含めて十ヶ所くらいしか残っていない。

水路:

“ムタミゾ(牟田溝)”と通称される水路が「荒巻」「阿弥陀作」「 六の坪」「バン道」を通っている。

また、徳須恵川と田中川の合流地点を“ビワンクビ(琵琶ん首)”“オログチ”などと呼んだ。そしてこの付近は、昔伊万里の方から上ってきた船が唐津へ向かうのに、それまで漕いできた櫓をおろし、その後帆を張って進む地点であったため、“ロオロシ(櫓おろし)”などとも呼ばれた。

 

○屋号

同じ名字の人達を区別するような屋号はないということである。ここでは一般の場合と同じく下の名前で人を区別する。

だが、江戸時代ここ徳須恵は宿場町として栄え、様々な職種の店が並んだ。それにちなんだ名前が存在する。

例えば、

筑前屋・・・遊郭

コーヤ(←紺屋)・・・染めもの

かど屋・・・?

まんじゅ屋・・・昔の別荘

などがある。

 

○村の範囲

徳須恵は稗田、田中といった地域と隣接している。稗田との境は徳須恵川によってなされている。この決まりは以前から変わっていないが、河川の整備により川の進路が変わったため、結果的に両地域の領分も変化した。元は稗田に属していた土地が徳須恵の方に入られることになった。

また田中との境は、明確な基準はなかったそうである。

(図アリ、省略:入力者)

 

○水利

・用水源

田中川を田中と共同で使っていた。それと現在の立園団地付近に昔ため池があり、徳須恵はそれを利用していた。

徳須恵は田中川にも徳須恵川にも水利権があるが、田中は徳須恵川に水利権がない。

現在、生活用水は村営水道を利用している。

・慣行

水番を置いていた。水番になった人は水番給と呼ばれる給料を貰い、水を公平に分配していた。現在は、生産組合が管理している。水番は旱魃の時には天皇よりもえらいそうだ。

徳須恵は水不足に悩む事は少ないが、土地が低い為水に浸かり易く、その為少々旱魃の時の方が豊作だった。水争いもほとんどなく、村の境界を越え、共同体の意識があった。

瀬戸口は、昔、徳須恵川が蛇行していた時、よく水に浸かっていた。また、北波多村役場や中央公民館付近の田は、昔そこが川底だったことから砂地で、「カイデン(開田)」と呼ばれていた。

徳須恵川の両脇に土手(堤防)を作り、川と堤防の間を遊び場(洪水の時に川幅を広くし氾濫を防ぐ)とした。

徳須恵川の近くは、昔、ウシニワ(牛庭)、ウマニワ(馬庭)という名で、農耕の為の家畜を飼っていて、牧草地になっていた。範囲は大杉橋から立園付近まで。その土地は、クジによって徳須恵の人に分配され、個人で1年間管理した。現在は荒れ地になっていて、業者が管理している。家畜の糞は堆肥として利用されていたが、現在は農耕に牛馬を使わないので、肥料は化学肥料を使っている。

“潮止め”

徳須恵川の下流で“潮止め”をして、旱魃の時は川の水が海に流出するのを防ぎ、川の水位を上げる。本来は、海が満潮になったとき海の水が川に逆流し、川の水位が上がるのを防ぐ。

 

○田による収穫の差

徳須恵は湿地が多く、裏作はできない。荒巻やバン道はよく水に浸かっていたので収穫は少なく、六の坪、阿弥陀作は収穫が多かった。俵数で比較すると、六の坪、阿弥陀作で810俵取れる時、荒巻やバン道では45俵だった。「旱魃にならんと米ができん」という言葉があったそうで、これは少々旱魃の時の方が、収穫が良いと言うことからなのだそうだ。

 

○古道

上徳須恵橋と岸山橋を結ぶ道路は、昔、伊万里の方の炭田から石炭を運ぶトロッコの走る“エンドレス”だった。

 

○徳須恵川の利用

船を使い、唐津方面へ米や和紙を運んでいた。

 

○祭祀

徳須恵には次のような年中行事が見られる。

@祇園(祇園祭り)

A川祭り

Bおくんち ※今は祭りとしては行われていない。

C亥の子祭り

@祇園(祇園祭り)

これは徳須恵内にある八坂神社のお祭りである。八坂神社は菅原道真を祀ったものである。同時にここでは水の神様としても祀られているようである。そして、昔流行した疫病などを免れるようにと、この祭りを通して祈ったということである。祇園祭りは旧暦の615日に行われる。

A川祭り

これは夏の第1週に行われるお祭りである。昔は盛んに行われていたらしいが、現在は古くからある家がいくつか集まって行われるのみである。この祭りは川の神を鎮めるために行われてきた。今年は713日に、川に酒や塩や米をお供えし、その後1920日に家に集まってお祝いをする。

Bおくんち

昔は行われていたが、現在は神事のみしか行われていない。当時は田畑の取り入れが済んだ11月にこの祭りが行われていた。

C亥の子祭り

これは旧暦10月の亥の日を祝うお祭りで、昔は徳須恵川でも行われていたらしいが、現在は行われていない。

本来は、畑を荒らす猪に対し農民が猪狩りをし、その猪の霊を慰めるために始まったものだという。現在この祭りは上平野でしか行われていない。

 

○その他

現在、徳須恵に住む人々は、稗田にある波多八幡宮を氏神としている。

徳須恵内には瑞巌寺(通称ジーガン寺)がある。これは波多三河守の菩提寺であり、昔はお祭りも行われていたという。そしてこの墓掃除は、現在は北波多村の郷土史研究会のメンバーが行っているそうである。

上徳須恵には祠があり、ここでは“祇園さん”(→八坂神社)を祀っているということである。

元禄14年頃「お伊勢講」や「お大師講」が作られた。これらは伊勢神宮にお参りしたい人々や、お大師様、つまり弘法大師の高野山にお参りをしたい人々が、現地に行くのは費用がかさむため共同でお金を出し合い、代表者がそこへ行ったりお宮を作ったりしたものである。

 

○その他伝説として、ある話を聞いた。

<岸岳伝説>

波多三河守の妻・心月姫に秀吉が横恋慕したため、姫は自害し、波多三河守は配流、後に殺され、家臣も死に、波多氏は滅亡した。その波多一族の祟りを鎮める為、あちこちに塚がある。

 

 

調査にご協力くださった古老の方が、昔を懐古しつつ次のようなことを言われた。

徳須恵という地域は、土地の低さのため古くから水害に悩まされてきた。それで、そのような水と共存して行くために村人は互いに団結し合うようになった。それは時として、徳須恵という境を超えたものであったという。いわば“生きるために村人が協力”しあっていたのである。それに比べ現在は河川も整備され、川が氾濫を起こすような事はほとんどなくなった。それに従い、村人の団結というものも次第に薄れていったという。

最近は個人主義化が進み、共に生きていくという感覚が薄れてきたことを嘆いておられた。

 

 

○調査日(76日)行動記録

1050分頃〜1410分頃

原口卓夫さん宅で原口ハルエさんにお話を伺う

1420分頃〜1530

中央公民館で楢崎さんの紹介により堤幸久さんにお話を伺う。



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