【北波多村田中】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97012 泉 朱里

1LT97025 上野 祐佳

 

話者:藤田 峯雄さん(昭和11年生)

松尾さん

 

1.一日の行動記録

815   六本松本館前に集合

830   出発

1030頃 北波多村少年相談所前で降車

(道を間違えて反対方向へ向かう)

1100頃 藤田さん宅に到着

1300頃 近くの“田中集会所”へ案内してもらう

1400頃 お礼を言って別れる

1415頃 バスを発見

(暑さで頭がボーとしていたので運転手さんに頼んで車内で涼ませてもらう)

1430  バス出発

1740  六本松本館前に到着

1800前 解散

 

2.調査事項

@しこ名;

田中地区では、殆ど全ての田は小字通りに呼ぶそうである。不審に思い何度も食い下がってみたが、小字で呼ばれる範囲まで全く同じで、実際今回お尋ねした藤田さんと松尾さんの口からも「本竹が〜」「床町が〜」と小字が日常的な言葉として頻繁に出ていたので、これは間違いないだろうとの結論に達した。

唯一、オリジナルのしこ名があったのは

 ・阿弥陀作り→牟田(ムタ)

 ・本当は田中の土地ではないが、昔から田中の人が使っていた(二町くらい)ので現在も田中の土地として使われている徳須恵の土地(緑で塗りつぶした部分)→牟田(ムタ)

※田中の土地は地図上にピンクの蛍光ペンで囲む

 以上2つだけだった。(昔は島の一部(左端)を溝添(ミゾゾエ)と呼んでいた。)

 

A田中の土地の使われ方;(しこ名単位の説明のため地図参考)

 ◦下鶴―現在は竹有地区の同和対策事業の一環として、整備工場が個人で建設、運営されている。

 ◦正町―約30年前にマルタイラーメンの工場が建てられ、田中の人も多数働いている。

 ◦大薮―現在も田。10世帯が米を作っている。

 ◦床町―現在も田。12世帯が米を作っている。

 ◦島―田中の昔からの住宅街。周りの広大な田の中でポツンと住宅地があったので、海の中の小島にたとえられて“島(シマ)”になったのではないか。

 ◦本竹―現在も田。1012世帯が米を作っている。

 ◦中牟田―現在も田。810世帯が米を作っている。

 ◦溝添・峯の辻―現在は新興住宅地。

 ◦千草野―40年くらい前まで炭鉱があった。閉山後は団地・共有林等。

 ◦立園―住宅地と畑。

 ◦皆木―共有林。

 

B農作物;

 広大な田では、米・裏作として麦・菜種等が栽培されている。畑もあるにはあるのだが23戸が自家用に細々とやっているだけで、キュウリ・ナス・玉ねぎ等が栽培されている。ちなみに現在“島”では65戸中18戸が農業に携わっており、内17戸は兼業農家。専業農家は今回お話をお伺いした松尾さん宅のみだった。

 

C水利;

田中は完全な自然水利とのことである。また田中はわりかし下流にあるので、上流の人々が用いた水のおこぼれが流れてくるのを待つだけらしい。堰は田中川に二つ設けられている。

水路は地図上に示した。(紫→現在/青→昔)地図を見るだけで昔の水路の方が入り組んでいるのは一目瞭然であり非常に不便なので、区画整理の際現在の水路に造り変えられた。

昔は堰は峯の辻付近に一ヶ所、現在は前にも述べた通り二ヶ所あり、皆木付近に一ヶ所、そして本竹付近に予備のポンプ式の堰がある。完全な自然水利で、しかも上流の田に水を取られてしまうのでは、平成6年の大旱魃の時はさぞかし大変だったろうと心配したが、案外そうでもなく予備の堰のお蔭で何とか間に合い、出来高は例年通りだったそうである。しかし、旱魃になりやすいのは事実である。

 

D土地の良し悪しと洪水の影響について;

地図をご覧頂ければ明らかであるが、田中は田中川と松浦川という二つの大きな川に囲まれている。昔は、両川とも相当入り組んでいたらしく、洪水は旱魃以上に人々の悩みの種だった。毎年梅雨の季節になると、低地になっていた下鶴・正町は水に浸かっていた。そういう影響もあって、実際土地による出来高に差はなかったにしろ、水に浸かる心配があまりなかった本竹・床町が田としては好まれ、大薮・中牟田あたりは普通、そして下鶴・正町はやはり敬遠されていた。だが、昭和28年に起こった大水は大変酷く、本竹・床町に至るまで全て水に浸かるという大災害にみまわれた。

現在では、区画整理が行われ、また川も整えられ立派な堤防も造られたので、洪水の心配も取り除かれたそうであるが、先頃の異常な大雨の時などは本当に大丈夫だったのだろうかと、密かに心配である。

 

E屋号について;

田中にはその昔、小さなお城があったと伝えられている。田中にある葛原神社にも、今では盗まれてしまったか何かで存在しないが、お城の遺品が埋蔵されていたという言い伝えまで残されているらしい。その時付けられた屋号が今でも残っており、○○さん宅とは呼ばずに屋号で呼んでいるそうである。

地図上の島にあたる部分を見て頂ければお分かりになると思うが、いくつかの民家を色鉛筆で塗りつぶしている。これらが屋号が存在する家々だ。次にその一覧を紹介したい。

・赤紫…大門口

・青…玉ヶ橋

・茶…ゴトクイ

・黄(藤田さん宅)…乙ぼね(御局)

・緑…ムカエ

・赤…カゲ

・灰色…坂下

・赤の斜線…(昔、城があったとされる部分)城野

 

F祭りについて;

田中の祭りは全て葛原神社で執り行われる。葛原神社は普段は無人だが、北波多村にある他の神社を兼ねた神主さんがおられ、祭りの時には祈とうに来られる。

祭りは年3回行われ、春には「春祭り」、夏には「夏祈とう」、秋には「秋祭り」がある。「春祭り」は敬老会と神社自身のお祭りがあり、「夏祈とう」は無病息災・家内安全・植付願状の祈とうが捧げられ、人々は季節の野菜やお酒を供える。これを「一重携帯」という。「秋祭り」はいわゆる収穫祭で、今年の豊作を祝い来年の作柄を祈願する。反省会も行われる。

ちなみに、千草野付近にある瑞願寺には鬼子嶽末孫(きしたけばっそん)もある。

 

G江戸時代の田中;

 隣の徳須恵が、宿・遊郭を持つ宿場町だったのに対し、田中は以前から静かな農村地帯だった。しかし、長崎街道が近くを通っていたこともあり、馬車引きなどで生活する人もいた。

 

H明治〜昭和までの田中;

 約40年前炭鉱が閉山される前は、千草野を中心に「炭鉱の町」として栄えていた。現在北波多村は人口5000人程度だが、当時は約3倍の15000人近い人が住み、炭鉱で多くの人が働いていた。炭鉱も名称が住友炭鉱→子袋炭鉱へと変更している。しかし、石油の進出により石炭は振るわなくなり、ついに閉山へと至った。閉山後は新興住宅地が盛んに造られた。

 

Iこれからの北波多村田中;

 今のところ北波多村の人口は現状を保っている。田中にも子供は30人程いる。これから住宅・公園・医療機関等を整備し、より住みよい村の建設、人口の増加が当面の目標のようだ。また、西九州道路(アクセス道路)の敷設も予定されており、生活が便利になると喜ぶ反面、「本竹」が消滅することになり、農業を営む人々にとっては痛い損害である。田中の人々も年々、土地を他の農家に貸して転職を試みる人も増えつつあり、農業離れは激しくなる一方である。今後は、北波多村全体で農業に代わる新たな事業を開発していくことが必至である。

 

3.感想と反省

先方に訪問を依頼する手紙を出して電話で都合を伺った時には、「何故名指しでうちに来ることになったのか。どうしてうちの住所を知っているのか。」と少し怪しまれていた。訪問する時間についても1100頃ということにしておいたが、「もう少し早くしてもらわないとこっちにも用がある。」というふうに言われ、これは暗に断られているのだろうかと不安になったが、「なるべく早く伺って遅くとも1130には帰ります。」ということで納得してもらった。そういうわけで、現地に着くまで時計を見つめながら、早く着くことだけを祈りながらバスに乗っていた。どう考えても歓迎はされてないように思えたので、かなり憂鬱な気分でいたことを覚えている。しかもいざ北波多村に着いたところで、まず方角を間違えて反対方向へと歩き出してしまい、もう一度戻って来て、目的の藤田さん宅に着いた頃には1100近くになってしまっていた。これは殆ど何も聞けないと思いながらも、とにかく話を聞くために通された座敷で地図を広げると、しかし何故か和やかな空気が満ちていた。藤田さんの紹介で、田中で唯一の専業農家をしている松尾さんも一緒に話を聞いて下さることになり、しこ名の調査から村の今後についてのことまで、随分熱心に語って頂けることになった。

村について、彼等が当然のように思っている知識のひとつひとつを、私たちがメモしたり地図に残したりしているうちに、多分北波多村の者として村を語ることに自信と誇りを見出したのだと思う。思いつくままに村に伝わる伝説話や村対抗のバレーボールの試合が行われていること、過疎化が進んで活気がなくなったとはいえ、田中の者は皆助け合って村の行事(今回はバレーボール大会)には精力的に参加している、ということまで語ってくれた。今では田中の中でも農業をしている家は大分少なくなってきている。それに伴って村の中の住人も、新しくできた住宅地に移り住んで来た人など昔のことを知っている者は少なくなっているようだ。目の前で村の歴史が風化し忘れ去られているのを見ているのに、こうして私たちのような部外者がやって来て調査をすることでもない限りそのことに気づかずに、気づいても気にも留めずに過ごしてしまうのだろう。私の実家のことを考えても、道路工事のために隣の建物が壊されてしまうと、一体そこに何があったのかを思い出すのは不可能に近い。佐賀に出発する前に先生が、「ある意味、異文化となる農村を体験してきて欲しい。」と言われていたが、異文化だという実感は、そこを訪れた私たちのうちにも、受け入れて下さったあちらの方々の中にもあったのではないかと思う。

話を聞くうちにも、昔はこう、もっと昔はこう、最近は、というふうにいくつもの時代が深く入り組んでいくことが多く出てきた。たったひとつの現在のある事実へと繋がるのに、本当に多くの偶然や努力や政策があったのだと思うと、不思議な気分になった。

話を聞くうちに1130をとっくに過ぎてしまった。こちらとしては早く帰らないといけないと思い、何度か「それでは…」と切り出そうとしたが、にこやかにかわされて、結局近くの田中集会所に連れていってもらうことになった。突然わけのわからない集団がやって来たのに、本当によくしてもらってありがたいと思った。大雨が降り続いているニュースを見るたび、水害を過去何度も受けてきた田中のことを思い心配している。こういうふうに、何も知らなかった所が特別になるというのが交流の成果なのだろう。とても長くて、心に残る一日だった。



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