【北波多村下平野】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97176 渡部 史之

1LT97146 満生 崇

1LT97147 水田 雅規

 

聞き取りした方:中島 隆夫さん(昭和26年生)

中島 宏さん(中島隆夫さんの父)

山崎 猛夫さん(大正10年生)  他10人前後

 

北波多村下平野

<しこ名一覧>

オショウダニ(和尚谷)、ホトケノタニ(仏の谷)、ホトケノミチ(仏の道)

ツルカケツジ(つるかけ辻)、ヤマンタ(山ん田)、タラノ(たら野)、ジャガブチ(蛇が淵)

オニガヒラ(鬼ヶ平)、マゴメ、カナイシ(金石)、ハンノタ(はんの田)、ミミンツ、マツワラ、

ハヤンダニ(はやん谷)、ムカエノヤマ(むかえの山)

※山崎先生は北波多村史(下巻)の中で、ホトケノミチのことを「仏道」と書かれていたが、中島さん達はホトケミチと「の」を入れないで呼んでいた。

田畑

小字 前田のうちに

ハンノタ

小字 橋口のうちに

マツウラ

小字 金の手のうちに

ミミンツ

小字 大平・中大平・三本松にかけてのうちに

ヤマンタ

果樹園

小字 橋口のうちに

オショウダニ

小字 中木場のうちに

ホトケノミチ

小字 中大平・中木場にかけてのうちに

ホトケノタニ

 

ハヤンダニ

果樹園・

茶畑

小字 鏡石のうちに

タラノ

果樹園・

広葉樹林・

針葉樹林

小字 三本松のうちに

オニガヒラ

広葉樹林・

茶畑

小字 下千田のうちに

ジャガブチ

広葉樹林

小字 金の手・上岩の下にかけてのうちに

ツルカケツジ

針葉樹林

小字 愛宕前・金の手にかけてのうちに

ムカエノヤマ

茶畑

小字 大平のうちに

カナイシ

果樹園

小字 高尾のうちに

マゴメ

※山崎先生の北波多村史(下巻)によると「マゴメ」は下平野にあるしこ名の一つとのことだったが、中島さん達にお聞きしたところ、教えていただいた位置は上平野の高尾の位置であった。

 

・使用している用水の名前

ウワイデ(上井手)、ナカイデ(中井手)、シモイデ(下井手)

・用水源

 下平野川(上には下千田溜がある)

・共有している他の村

 なし

※中島さん達の話によると、下平野は昔から下平野川からの用水を100%使うことができたらしい。また、下千田溜の権利は、昔はすべての権利が下平野のものではなかったらしいが、先人たちの努力の結果今ではその権利はすべて下平野のものであるそうである。また、井手・井堰においては個人個人で持っているものもあるそうである。

※山崎先生が他の地域担当の人に、1994年の大旱魃の際肥前町の溜め池から水を引いて乗り切ったと話していらっしゃったが、下平野でもそうであったのかは定かではない。

 

<小字の由来>

北波多村下平野

鏡石

シバ千とは平坦な地のこと。「鏡石」の「石」とは石のこと。平たい所に石があったためその名が付いた。

千田

「千田」の「千」はあて字で実際は「山」のこと。また「千田」の「田」は「こな、あな」などといった、場所のことを表す。

千田とは「山の中」という意味。

大平

「大平」」の「平」とは「坂、傾斜地」のこと。「大平」とは大きい傾斜地という意味。

中大平

中くらいの傾斜地という意味。

三本松

下平野では3という数字は良い数字とされていた。3本の木があったためこの名が付けられた。

中木場

焼き畑の畑があったためこの名が付いた。

前田

宮の前にあったのでこの名が付いた。

愛宕前

愛宕神社があるのでこの名が付いた。

金の手

「金の手」とは直角のこと。田が直角であったためにこの名が付けられたらしい。

岩の下

大きな岩の下にあったのでこの名が付いた。

 

<村の耕地について>

・昔、下平野で余り米が取れなかった田は、前田の一部地域にあったらしい。(5千分の1の地図の橙色の斜線部分がそれにあたる)

・戦前、化学肥料が入る前では1反当たり56俵の米が取れていたらしいが、戦後、化学肥料が入った後では1反当たり平均8俵、よく取れて9俵くらいだそうである。

・下平野では入り会い山が今でもあり、(小字名)上岩の下の一部地域、下千田、三本松、愛宕前にかけての地域がそうであるらしい。(5千分の1の地図の紫色の斜線部分がそれにあたる)

 

<村の道について>

・昔の隣の村に行く道は、5千分の1の地図の黄色の線の部分がそうである。また、5千分の1の地図にも示しておいたが、昔はもう1つ橋があったらしい。その橋を含む2つの橋(○で囲んでいる橋)は、ちょっとした雨などですぐ沈んでしまうので、中島さん達はこれを「沈み橋」と呼んでいた。

・学校道は、5千分の1の地図の桃色の線の部分がそうである。また、集会所(桃色の○で囲んでいる所)は、昔、学校の分校であったらしい。

・「□□ノウテ」と呼ばれる道は、中島さん達の話ではなかったらしい。

※ちなみに、下平野では昭和56年に補助整備が(小字名)金の手、前田、橋口にかけて行われたらしい。(5千分の1の地図の赤い線で囲んだ所がそうである。

 

<村の名前について>

中島さん達の話によると、下平野には次の3つの小路があったらしい。

 ハシグチ(橋口)、ナカグミ(中組)、ムカエグミ(向組)

 

<屋号について>

 中島さん達の話によると、下平野には屋号はないらしい。

 

<焼き畑について>

焼き畑はキリハタというのが正式名称であるらしい。また、戦後には焼き畑はほとんど行われなかったらしい。

 

<祭祀について>

中島さん達は、ヒエ神社(日枝神社)、アタゴ神社(愛宕神社)の氏子だそうである。また、オダイシ様(御大師様)という神様も、下平野ではおまつりしているらしい。御大師様とは弘法大師のことだそうだ。

お祭りの名

時期

内容

オニビたき

正月の7

「オニビたき」とは地域ごとに行われ、みんなで家の外の飾りや門松を持ってきて焼き、その後でおもちを食べる祭りである。

ヒガンゴモリ

「ヒガンゴモリ」は彼岸の日に行われ、ごちそうをみんなで飲み食いするらしい。また、お客さんは病気にかからないように、神主さんからお祓いを受けるそうである。

オヒマ

「オヒマ」とは天照大神をまつるお祭りであり、朝から晩まで3日間行われるらしい。

春祭り

4

お米が今年もよくとれるようにと行われるお祭り。

秋祭り

豊作を感謝する意味で行われるお祭り。

 

*追記

(これは下平野に関することではないが、せっかく教えて頂いたのでここに示しておく。)

 山彦には以下の2つの場所があるらしい。

 まず1つ目はサバクサレイワである。これは昔、行商のため魚屋がサバを担いで山の中を歩いていると、今にも落ちてきそうな大きな岩があるのに驚き、行こうか行くまいか迷っているうちに売り物のサバが腐ってしまったため、この名が付けられたそうである。

 次に2つ目は仏が彫ってある岩盤である。これは山彦のある山の岩盤に彫られたもので、そこにたくさんの仏が彫ってあるらしい。またこれは室町時代のものであるそうだ。

 

<一日の行動記録>

 予定通り830に学校を出発し、1030に目的地である下平野に到着。1100に下平野の区長である中島隆夫さんの家を訪問し、山崎猛夫先生を紹介される。その間、区長さんの父である中島宏さんのお知り合いの方からお祭りのことを伺い、また中島宏さんからは山彦のことを少し教えて頂いた。1200頃中央公民館へ行き、昼食後山崎猛夫先生の話を伺うことになった。しかし1300に農業調査員の古賀博生さんのお宅を訪問することになっていたのでグループを二手に分け、満生・水田の2人が古賀さんの家へ、渡部が山崎先生の話を伺うことにした。しかし古賀さんはアポイントを取っていたがいらっしゃらず、お話を伺うことができなかった。一方、山崎先生から小字の由来などを聞いた渡部は1445ごろ下平野へ再び戻り、中島隆夫さん他10数名からしこ名や古道のことなどを伺った。1540ごろに3人は下平野のバス停で落ち合い、学校のバスで福岡へ。



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