【唐津市北波多村志気】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97026 宇キ 美咲

1LT97154 本村 香織

 

調査日:平成978

お話を伺った方:川添 政市様 (不明)

山崎 猛夫様 (大正12年生まれ)

 

私たちは去る76日(日)に佐賀県東松浦郡北波多村志気において、しこ名等についての聞き取り調査を敢行いたしました。ところが先生もご存知の通り、その日志気は村中総出の草刈りの後、秋の豊作を願っての夏祈祷が行われるとの事でした。貴重なお時間を割いて頂き、区長さんにお話を伺いましたが、しこ名についてはご存じなかったようです。

そこで、どなたかしこ名に関する知識をお持ちの方を紹介してくだるようにお願いしたところ、山崎猛夫先生のいらっしゃる公民館まで送ってくださり、私たちも志気についてのいろいろなお話を伺うことができました。

しかし、本来の調査目的であるしこ名は、その場所など不明な点が多く、ほとんど分からない状態となっていました。その一方で、小字に関してはたくさんの情報を集める事が出来ました。しこ名の調査が不十分に終わってしまった事は、甚だ遺憾に思うところです。

 

*小字一覧*

吉田

「吉」=ヨシ(植物の葦)で、一般に湿地に多い地名である。地図上の志気橋は、吉田橋とも言う。

(イケ)()

シ…ニ、ヒガモ、タの方角方向を表す略。石は当て字である。

倉谷

クラ…山中の崩壊地形のことを言う。音的には、クル、クユ(崩ゆ)の語尾が変化したものである。加えて、クラの後には必ずタニ()がくる。

()の元

ヒノモトは川の元であり、樋は水路、溝を指す。

辻の上

この地方の方言で、「辻」=低い山の頂上である。また辻には道の交差点という意味もあり、辻の上とは山道の合わさった頂上を言う。

裏の谷

日陰になっている谷間状の地形を指す。

芋木場

イモコバもしくはイモキバと呼ぶが、木庭=焼き畑であり、キバ=伐採した木材の集積場である。焼き畑の行われなかった志気では後者であろう。またイモはウモ(埋も)が変化したもので、土砂に埋もれた土地のことである。

三ツ石

ミツはミチ()が変化したもので、小路、路地を指す。イシはイジ(井地、井路)が変化したのである

大久保

周囲より低い所を指す。

前田

村内に多い地名である。前田とは豪族、豪農の屋敷の前にあった田を指すが、一般的には神社や寺院前の田のことも指す。志気の前田は鎮守社○神社が樋の元に鎮座しているので、後者であろう。

下岩峰

不明

吹の元

フキはフケの転化。フケは無駄という意味で、役に立たなくなった深田を指す。「元」は場所を指す。

川頭

川の最上流、水源を指す。

山の田

不明

上岩峰

不明

平木場

「平」=山の傾斜地、坂。

日暮谷

農民が日が暮れて暗くなるまで働いた事を示す地名。

 しこ名「ひやあんはら」(這の平)

「まつで」(待出)      内在

下三ツ木、上三ツ木、中三ツ木

「三ツ木」は御都築の転化したもの。御都築とは関所であるが、おそらく郷境に近いために設けられたのであろう。伊万里と交渉のあった頃、馬から荷物を積み替えが行われた。

小峠

山頂、山の峠続きの高いところ、傾斜地の下り坂を指す。

中の瀬

川の流れが狭いので「中の狭」を書き換えたものである。

 ※「中の瀬」は志気橋付近であるが、おそらく志気では無い。

 

*志気について*

1994年の大旱魃の時はどうしたか。

志気では旱魃はなかった。ため池から水を引いた。 30年前ぐらいに大旱魃があったが、その時は川から人力で水を汲み上げて運んだ。水利権が最初から決まっていて、争いはなかった。

・どのような作物が取れるのか。

米の他には茶、梨、ミカンなどを作っている。昔は1年に3回収穫され、それぞれ一茶・二茶・三茶を呼ばれる。嬉野茶をしのぐ人気がある。梨は7月初旬に早くも出荷されている。

・焼き畑につけた名はどんな名か。

志気には焼き畑はない。焼き畑は広い場所に作るものである。

・「○○ノウテ」と呼ばれる道はあったが

田植えの時に縄を張って苗を植える場所の目安にするが、その縄の手前の方を縄手という。地名にある場合が多く、道はない。

◦屋号は農家にはほとんどない。特別な家(本筋の家など)ならばニシ、ヒガシなどとついた。

◦川に下りる通路をコージ(小路)と言う。

◦志気は、他村とあまり関連がない。

76日は夏祈祷または夏越し祭りといって、その年の豊作や無病息災を祈る行事があった。天満神社という神社で行われるが、実は神仏習合で、神事は僧が行っていた。

 

―終わりに―

私達は生まれて初めて現地調査というものを体験しました。短い距離でしたが、ヒッチハイクまでして志気まで辿り着いたまではよかったのですが、運悪く村の方々は忙しく、十分にお話を伺えずに落胆していたところでした。ところが運良く山崎先生に巡り会うことができました。

ただ一つ心残りだったのは、まさに現地である志気の方々との交流が無かったことです。せめて夏祈祷だけでも見学したかったのですが、開始時間が午後3時半であり、とても無理でした。

強く興味を引かれたのは、小字の名づけ方や、その成り立ちでした。文字(漢字)と実際に発声される音との結びつきの不思議さに気づくことができました。



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