【北波多村岸山】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97028 江藤 千晴

1LT97056 久保 朋子

調査日:199776日(日)

聞き取りした方:中山 勝利さん(昭和13年生)

小林 誠さん(昭和9年生)

小林 和良さん(昭和7年生)

松本 淳さん(昭和26年生)

小野 法善さん(昭和21年生)

 

◇しこ名について――ほとんどが小字と同じ

・田畑

地図

番号

小字名

しこ名

地図

番号

小字名

しこ名

@

上桜木

ドバ(土場)

M

小松田

コマツダ

A

桜木

サクラギ

N

釘サキ

クギサキ

B

七ツ枝

ナナツエ

O

八反田

ハッタンダ

C

有の木

アリノキ

P

前山

マエヤマ

D

地蔵木

ジゾウギ

Q

井川谷

イガワダニ

E

ヤス谷

ヤスタニ

R

寺の谷

テラノタニ

F

松林

マツバヤシ

S

笹の平

ササノヒラ

G

トヲメキ

ドウメキ

内野

ウチノ

H

サイコノ谷

サイコノタニ

伝助

デンスケ

I

西谷

ニシタニ

坊中

ボウジュウ

J

小加倉

オカグラ

本城

ホンジョウ

K

下坊

シモボウ

悪瀬

オウセ

L

杭木

クイギ

 

 

 

※他に、桜木には寺院(常安寺)所有の田と畑がある。

・橋

小字名

しこ名

小松田

七ツ枝

地蔵木

コマツダ橋

ナナツエ橋

ヤシロマチ橋

(矢代町)

・山

 個人個人で山を持っており、昔はそこからたき木やカタイシ(椿の実)を取っていた。カタイシから椿油を作っていたわけだが、ほとんど自家用だった。

・屋号

 4件ずつ同じ名字の人がいた。

 例)小林 「瓦焼き」…職業から

「酒屋」 …職業から

松本

栗島 「有の木」…地名から

兼尾

中山

 

◇水利について

◦ため池

小字名

しこ名

桜木

七ツ枝

ヤス谷

サクラギのため池

ナナツエのため池

ヤスダニのため池

◦井手

小字名

しこ名

杭木

小松田

地蔵木

井川谷

クイギの井手

コマツダの井手

ジゾウギの井手

ヒガラシの井手

 用水は岸山単独のもので、字ごとに分けて使っていた。水不足の際は水のある用水から水をもらっており、水利の決まりなどは特にない。井手の使い方はかけ流しである。水源はため池か岸山川で普段は川の水を使っているが、水が足りない時はため池から水を取る。岸山はどちらかと言えば水利に強い村だった。

1994年(平成6年)の大旱魃

 ・平成4年の補助整備以降水害はない。

 ・平成元年か2年の旱魃の時は時間給水があった。(田に水が溜まったら用水の水を止める。)

 ・犠牲田はなし。

 ※もし40年前だったら・・・旱魃よりも水没の方が問題。

6月〜7月のはじめに、一度田が水没すると一週間くらい水が引かない。

8俵とれる田でも収穫高が0になってしまう。

 

◇村の耕地

◦戦前

 ・反当78

 ・肥料…人糞又は堆肥

※堆肥

 野草を切って堆肥を作った後、堆肥舎(レンガ作りの小屋)に入れて保存する。堆肥舎はどの農家にもあり、大会が開かれて堆肥の質を競った。

 ・岸山は良田が多かった。

山の田…等級が下がる。

川岸の田…水に浸かると等級が下がる。水に浸からなければ良田。

 ・湿田…杭木・八反田

乾田…その他

 ・共同林…寺の谷と七ツ枝(昭和30年代まで)

 

◇村の道

◦となり村に行く道(地図に図示、地図は佐賀県立図書館所蔵)

◦学校道(地図に図示)

昔はヨシタニ(芳谷)小学校があった。(現在廃校)

◦古道

 ・生活道路

 ・車道には板石を敷いていた。

 ・県道に沿って用水や排水が流れていた。

 

◇祭

◦神社…田島神社

 ・金比羅さんが炭坑を採る際に田島神社に移された。

 ・11月の第3日曜日に田島神社祭りがある。

◦家の神

 オコジン様(荒神様)

 オダイシ様

 ホウジン様

 

◇その他

◦岸山の名称の由来

 松浦側から船が着き、その一帯が栄えたことから。

◦炭坑

・鉱害のため今でも赤い水(金気水)が出る。

 ・七ツ枝のため池は三菱(炭坑)に作ってもらった。

 ・金比羅さんや常安寺は炭坑を掘る際に移された。

 ・石炭の積み込み場所→土場

その周辺を“ドバ”と呼ぶようになった。

 ・炭坑の施設(現在の矢代町公民館あたり)まで、朝暗いうちに野菜を売りに行った。

◦杭木では昔瓦のドロがとれた。

◦古唐津の土は昔稗田でとっていた。

◦自家用のお茶の木が各家庭にあった。(今はあまりない)

 

◇村のこれから

◦現在

 ・買い物は徳須恵に行けば間に合う。

 ・人口の変化は横ばい。

 ・ほとんど(特に若い人)が兼業農家。

 ・56人の家族が一緒に住んでいる。

 ・老人の世話は家族がする。

 ・みかんの栽培。

◦農業のこれから

 ・農業は先祖から続いたものとして残るだろう。

 ・おそらく集団化して少数の人に委託する形を取るようになるだろう。

 

◇一日の行動記録

 9時、学校を出発。途中休憩を挟み10時頃目的地にたどり着く。1130分から公民館で話を聞く予定だったので、とりあえず近くの家を直接当たってみることにする。ちょうど田んぼで作業中の男性に話を聞くことができた。そこで“土場(ドバ)”というしこ名を教えてもらう。

その後、公民館で話を聞く予定だった方と会い、調査の主旨を伝える。古道と水路の話を聞く。ここで地図にない墓地を発見したので書き込むことにする。予定より少し早かったが公民館で話を聞く。しこ名のこと、水利のこと、祭祀のことなどを教えてもらう。北波多村の歴史を聞いていると、「法安寺に行くとよい。」と言われ、行ってみることに。話をして下さった方々に丁寧にお礼を言い、1時頃公民館を出る。

法安寺へ行く前に、古唐津焼の窯元に立ち寄る。(ここで一度道に迷う。)時間がなさそうだったので、田島神社には立ち寄らずに法安寺を目指す。法安寺は思ったより山手にあり、うぐいすなど様々な鳥の声が聞こえ、別世界へ下り立ったような気がした。法安寺の一歩手前にある“岸岳ふれあい館”で遅い昼食を摂る。お腹も一杯になったところで、目的地・法安寺へとたどり着く。

法安寺には波多三河守の巨大な像があり、その下の碑文を見ると何と山崎さんの名があり、あらためて山崎さんのすごさを実感する。岩肌に刻まれた石仏を見た後、住職さん(小野さん)に岸岳城にまつわる不思議な話を聞く。

時間が迫っていたので慌ててもと来た道に戻ろうとした。が、ここで慌ててはいけなかったのだ。そうとは知らず急ぎ足で行っていると、見知らぬ景色が。どうやら道に迷ったらしい。そこで通りすがりの中学生らに道を尋ね、急いで徳須恵の交番を目指す。しかし、着いてみるとバスがどこにも見当たらない。どうやら置いていかれたらしい。仕方がないのでJRで帰ることにする。バスに揺られ電車に乗り、ようやく帰途についた。

 

◇反省

 1時間から30分前に集合場所に行けるように計画すべきだった。

 村の方とお話しする時、こちらの調査の意図がなかなか分かってもらえなかったが、帰りがけに授業のプリントをお見せしながらお話しすると、すぐに分かってもらえた。最初から授業のプリントをお見せしておけばよかった。



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