【北波多村上平野】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97143 松尾 信利

1LT97172 吉野 伸英

 

話者:大島 俊和さん

石橋 貞二さん

 

<上平野>

しこ名

石堂、ししぼり、西のふけ、ひき地、かきぞえ、淵のもと、いだのくび

田畑

一ツ枝

高尾

上平野

石堂

マゴメ(場所不明)

淵のもと、曲がり字

※その他に「たんたみぞ」「さんしょ谷」という地名などを聞いた。

*使用している用水の名

うわば水開発

*用水源

 川の東…大田溜、しゃりん溜

 川の西…井野溜

*昔の配水の慣行

 「いせき」という名で、川をせき止めるせきを作り、それによって水田に水を引いた。

 そのせきより下は水利権なし。

*昔の水争い

 下流の山彦との争いは絶えなかったらしい。しかし、それは40年ぐらい前の話で今は全くない。

 3年前の旱魃では、上流にある「うわば水開発」から水を引いてもらってきりぬけたそうだ。昔と違い、何も争いなど起こらなかったそうだ。

*屋号

 金丸、石橋、石崎、大島、梅野、森山(庄屋)

 

<レポート調査>

1020分にバスから降り、大島俊和さんの家へ向かう。上平野は店などほとんどなく、山に囲まれた盆地っぽい所だった。水田が多く畑はほとんどない、茶畑がほんの少し見られるくらいだった。自分の実家と似たよう感じで親しみのわくような場所だった。

大島さんの家では、俊和さんとそのお父上であろう方が教えてくれた。しかしその方でもしこ名は全く分からず、とりあえず小字とその範囲などを教えてもらった。小字は田、川などを境として決められていて、今でもその境は決まっている。しかし小字でさえもだんだんと使われなくなってきているということだ。

また水利については、「いせき」といって、昔、川をせき止めて川よりも高い土地の水田に水を上げたという。普段は上のため池から、水を上の田から順に下ろしていってそうだ。

特に水争いについては興味深い話を聞けた。特に水の少ない年は、必ずといってよいほど水争いが村単位で起こるそうで、特に下流にある山彦との争いはかなりのものであったそうだ。ルールに違反して約50人の人で川から直接水を汲み上げたりし、そのため下流の山彦は水不足となり上平野と争いになったそうだが、詳しくは教えてもらえなかった。

3年前の旱魃についての質問には、上流の「うわば水開発」から水を送ってもらい、いざこざもなくきり抜けたそうである。

屋号については同じ名字を持つ家が多い。10数軒の家があるが名字は6つしかない。森山という人が庄屋だったと教えられた。

村の道などはほとんどご存じなくて残念だった。その後、お礼を言い大島さん宅を離れた。

昼食後石橋さんの家を訪れたが、石橋さんのお父上(大正生まれ)が外出中で、更に詳しい事は聞けなかった。大島さんと同じ事を尋ねたが答えはほとんど同じであった。ただ、水争いについては約40年前まで起こっていたらしく、激しい問題だったそうだ。また、村の中でも小さないざこざは絶えなかったらしい。

石橋さんの家に行った後公民館に連れて行ってもらい、そこで更に詳しく教えてもらった。あまり時間がなかったが、いろいろなことを教わった。

「平野」という名ではあるが、広く開けた土地ではなく山の裾野などの緩い傾斜の土地を指すそうである。上平野についての歴史は、分からない事、明らかでない事が多いが、水量も豊富で農業を行うにはかなりの好条件の土地であるそうだ。

そして「石堂」「ししぼり」「西のふけ」「ひき地」「かきぞえ」「淵のもと」「いだのくび」というしこ名があるということで、古老の話の元、2つのしこ名の場所が分かり、かなり興味深かった。しこ名の由来は分からなかったがユニークな名前が多く、もう少し詳しく調べてみたかった。

残念ながら公民館での時間はほとんどなく、バスの時間に合わせそこを出て、バスに乗り帰宅した。

全体的に見て「上平野」では分からない事が多かった。もう少し下調べをして、ちゃんと小字、しこ名の名を知った上で実地調査をすればもう少しうまくいったと思う。先に公民館に行けばよかったと思った。運悪く地区の人の葬式と重なってしまい、ほとんどの人がその式に出ていて、いない人がとても多かった。実地調査の難しさを実感できた。



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