【唐津市北波多村稗田】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LT97034 大森 恭子 1LT97040 小野 真希子
話者:鶴田 馨さん (昭和2年生まれ) 尾崎 靖朗さん(昭和10年生まれ)
〖北波多村 稗田〗 しこ名:ヤイシ(矢石、家石)、テッポウマチ(鉄砲町)、モンノマエ(門の前)、 テラノマエ(寺の前)、オトノサカ(音の坂)
田畑:小字家石のうちに ヤイシ(矢石、家石) 小字畑中のうちに テッポウマチ(鉄砲町) 小字杭木のうちに モンノマエ(門の前)、テラノマエ(寺の前) ※鶴田さんの話によると、ヤイシには矢石と家石の2つの漢字があるが、住宅を指す場合には矢石、田畑を指す場合には家石を使う。
古道:小字向田のうちに オトノサカ(音の坂)
用水:しこ名はなし 稗田には溜め池が多いため、それほど水争いも起こらなかった。徳須恵川から反対側の地域では水争いが起こっていた。1994年の大旱魃の時も、少々水不足ではあったが溜め池から水をひいているため、大きな心配事にはならなかったようである。対策としては「まわし水」を行っていた。「まわし水」というのは、田から水路に落ちてきた水を再びポンプで汲み上げて、再利用することである。 稗田には水が豊富にあるため、村の外からも水を売ってほしいと頼まれているそうである。
◦長崎街道について 地図上に示した黄色の線は、江戸時代に参勤交代に使われていた長崎街道である。長崎街道には一里ごとに目印になるものがあったそうで、稗田にもその目印があった。それが地図中に示した「三本松」である。当時は大きな松の木が三本立っていたらしいが、尾崎さんが覚えている限りでは、一本しか立っていなかったそうである。その一本の松の木も昭和40年代に切り倒され、今では一本も残っていない。現在では波多八幡神社の記念碑が建っている。 また、長崎街道は徳須恵橋を通っていたが、現在の徳須恵橋の位置とは異なっていた。当時の徳須恵橋は現在よりも少し南の方にあったそうである。
◦古道、隣村に行く道などについて 昔の道は現在のものとほぼ同じであった。この稗田地区では、道というよりも舟で川を行き来していたそうだ。この辺では石炭が取れていたが、それも舟を使って運送していた。
◦入り会い山について 入り会い山は、小字丸尾の南の方に10年ほど前まであった。そこでかやを保存し、藁葺き屋根の家に住んでいる人たちが有先で、かやを分けていたそうである。
◦米がよく取れるところ・取れないところ、肥料について 稗田では、どこの田も米の収穫量はほぼ同じである。戦前は、稗田は炭鉱で栄えていたため、鉱害がひどく地盤沈下が起こっていた。圃場整備後は土が単一化してしまい、米があまり取れなくなった。裏作はしようと思えば出来るが、農業に従事する人が減少しており、余りお金にならないため、現在では行われていない。 肥料については、現在は化学肥料と牛、馬、鶏の堆肥を使っている。化学肥料が入る前は、牛、馬、鶏の堆肥とわらの堆肥を使っていたそうだ。
◦唐津焼について 稗田には地図にも示した通り、皿屋窯、飯洞甕窯跡、帆柱窯と言う3つの窯跡がある。その上、稗田では良質の土が取れるため、唐津焼発祥の地とされている。唐津焼は、秀吉が朝鮮出兵の時に陶工を連れてきたことからと一般には言われている。しかし話をしてくださった尾崎さんの見解はそれとは異なっている。尾崎さんは、昔から朝鮮と交流のあった波多氏が、朝鮮からこの地に陶工を連れて来たのが唐津焼の始まりだと考えている。
◦祭祀について 稗田には神様が大勢いる。薬師様、天神様、雷様、愛宕様、五穀神社、稲荷神社などである。以前はそれぞれの神様ごとにお祭りを行っていたそうだが、現在では10月9日に催される波多八幡での秋の大祭の前日に「寄せ祭り」を行っている。その他には六地蔵があらゆる場所で祀られていた。また天神様は、波多氏最後の城主、波多三河守親の前妻である心月寺の姫の墓であると言われてきたが、実は供養塔であるとのことだ。 畑中にある波多八幡神社は、千年以上もの歴史のある波多氏の神社だそうだ。猿田彦神という道祖神のほか、複数の神が祀られている。 訪問した日に行われた祭りは、豊作、無病息災などを祈って、神主さんが地区の家を一軒ずつ回り、厄払いをしていくというものだった。
◦村のこれから 7月6日の祭りの後、午後からは北波多村の地区対抗バレーボール大会が行われていた。昔から地区対抗の催しはあったそうで、稗田のハチマキの色は黒だったそうだ。また地区ごとの応援歌もあったと言う。お話をしてくださった尾崎さんは、稗田地区全体でずっと仲良く団結していきたいとおっしゃった。また、尾崎さんは稗田の伝統芸能について知っている数少ない中のお一人であった。 稗田の伝統芸能は浮立というもので、大中小の太鼓と鐘、主にほうの木などから作られ真鍮で加工されていた木笛を使い、舞も踊るそうだ。昔は子供たちに教えていたそうだが、今では子供の数が少なくなり、教えてはいないそうだ。しかし、ぜひ伝統芸能は残していきたいものだと言っておられた。
◦その他 我々が稗田の住宅の中を歩いて感じたのは、道が複雑ということである。目的地である公民館にたどり着くまでに、同じ道を何度も回ることになり、なんだか迷路にいるような気分だった。稗田は昔から「膳問(ママ)廻りが悪い」と言われている。これは物もらい(物乞い)の人が家を回っていると、混乱して再び同じ道に出てしまい、同じ家の前を回ることになるほど道が入り組んでいる、ということである。
◦しこ名についての補足 「テラノマエ」の由来について。 以前、現在薬師様のある付近に寺があったそうで、その前周辺をテラノマエと言っているそうだ。真行寺の前と間違えられやすいそうだが、こちらはテラノマエとは呼ばれていないようだ。 「モンノマエ」の由来について。 徳須恵にある八坂神社の鳥居が向いている方角、という意味である。
◦一日の行動記録 8:15 学校集合 8:30 出発 10:30 徳須恵到着、まもなく稗田に到着 家石あたりのビニールハウスにて鶴田さんに話を聞く。 11:30 波多八幡神社へ 12:00 三本松付近にある波多八幡の社務所の広場にて昼食をとる 12:30 稗田一区公民館周辺をうろつく 13:00 公民館にて尾崎さんに話を聞く 15:45 徳須恵郵便局にてバスに乗り込む 18:00 学校到着、解散
◦感想 福岡を出ると案外早かった。地図よりも近く感じた。事前のアポイントを取るのは全て失敗していたため、昔を知っている方に出会えるかどうか不安でいっぱいだった。 まず、畑仕事していたおばあさんに接触を試みたが、公民館に集まっている区長さんたちを訪ねるように言われた。公民館へ向かう途中、ビニールハウスで苗を扱っているおじいさんを発見。この人が鶴田さんで、しかも70代だった。仕事の手を止めて熱心にお話して下さった。 地名や聞いたことをまとめるため、真行寺と言うお寺に立ち寄った。えらくこぢんまりとしたお寺だった。大方のことを書き留めると、おばあさんに教えてもらった道順をすっかり忘れてしまっていた。寺から見渡せる景色の中に、祭りの旗が立っている所があった。私たちはそこが公民館だろうと思い込み、地図で確認もしないで、そこへ向かうことにした。途中で犬の散歩している電動車椅子のおじいさんを追いかけて呼び止めたのだが、おじいさんは最近唐津からやってきたそうだった。 ちょっと拍子抜けしつつ、ノコノコと歩いて行って目的地に着いたと思ったら、そこは公民館ではなく、波多八幡の社務所だった。大人は誰もいなかった。近くに波多八幡があったので行ってみることにした。全体的に苔むした古びた神社だった。最近祭りがあったのか、お供え物なんかが置かれてあった。建物の中には、古い絵が4枚ほどあった。馬の絵や戦の絵、姫様の絵とかだった。彩色は鮮やかで字が見えたものには、“明治39年9月”とあった。中には入れなかったので、じっくりとは見ることができず残念だった。とりあえずお参りして、おみくじをひいた。 正午近くになったので先ほどの社務所に戻り、子供の遊び場で乗り物に乗って、荷物を置き昼食をとった。人っ子一人いなかった。食べ終わってから、公民館へ行くことにした。お昼時なので、1時まで付近をぶらぶらした。 1時ごろ、公民館の前を通る。おじさん、おばさんたちがワイワイと居て、なんだか入りにくい。ためらっていると、ひとりのおじさんが公民館にやって来ていたので、そのおじさんに助けを求めた。皆さんが食べ終わるまで、外でお茶をいただいていた。そして、尾崎さんを紹介されて、私たちは公民館でお話を聞くこととなった。 尾崎さんは村役場を一昨年退職され、郷土史研究会の会長をなさっている方で、お話の上手な方だった。お話によると、稗田周辺は昔炭鉱で栄えていて人の出入りが激しかったため、比較的に開放的で、因習やしこ名などが少ないのだという事だった。その他に、稗田に多く存在する神様についてや、窯跡についてなど、様々なことを教えて下さった。最後に、この地がカッパの里らしかったので、そのことについてお聞きしたが、明確な答えは得られなかった。私はてっきり「カッパのミイラ」のようなものがあるのかと思っていたので、少し残念だった。いずれにしろ調査とは無関係だったが。 お話が終わるとすでに3時半だった。45分にバスが通ることになっていたので、急がなければならない。尾崎さんは途中まで送って下さった。その時に聞き取りの際、話題に出た天神様を紹介してくださった。 なんとか45分までにバスの到着予定地にたどり着いた。天気予報によると雨だったはずなので、私たちは日焼け止めも塗らずに走り回っていた。そのおかげで、ひどい日焼けをしてしまった。時計の跡までくっきりだ。このレポートを書いている数日前には、顔の皮がむけて大変だった。 どうにかこうにか、佐賀調査は無事終わった。あまり内容のない、上出来とは言えない成果だったかもしれないが、本人達としては満足している。稗田はとてもきれいな場所だったし、いろんな人々のお話を聞くのもとても興味深かった。まるで何かの事件の捜査で、証言を聞いている探偵にでもなったようで、とてもワクワクして楽しかった。私はまだ旅というものをしたことがないが、旅はこういう気分を味わえるのかもしれない。けれど、使命感がないと、物足りないかもしれないとも思う。 今回の一番の苦労は地図だった。稗田は予想以上に広かった。調査の際は巨大な地図があったので支障はなかったが、提出用の地図を見れば、あそこも足りない、ここも足りない、と何度も継ぎ足して5枚からなるいびつな形の地図となってしまった。予想よりかなり大変な時間のかかる作業ではあったが、自分達にとって意義のある調査にはなったのではないかなと思う。 |