【唐津市北波多村上有竹】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97003 秋山 薫

1LT97004 阿部 由希子

 

お話を伺った方:山崎 猛夫さん(大正10年生まれ)

 

*しこ名一覧(番号は地図の番号)

@ヤシキノタニ(屋敷谷)……小川が流れており、山裾の方には下竹有の溜池に続いている。

Aイシバシノモト(石橋の下)……民宿のところに石の橋がある。

Bヒヤケ(日やけ)……夏になると干ばつで水がなくなる。

Cマツバデー(まつばでー)……「デー」は「堤」のこと。

Dテシノクボ(てしの久保)

Eヤマンタ(山ん田)

Fビワンクビ(びわんくび)

Gカイモリ

その他(場所が定かではなかったところ)

「こご」「大岩の下」「峠」「天神様の屋敷」「わくど谷」「なごや谷」「むくの木の下」

「村谷」「やはぎ」「稲荷山」「ばばん屋敷」  ※漢字表記は資料による。

 

H上竹有のため池……上竹有専用のため池で、特別な名は付いていない。

I古道……上竹有〜下平野を結ぶ道で、現在はほとんど使われていない。

Jココノハシ(またはコウノハシ)(呼合橋)……この地では伝説的存在であるカッパ(ガアッパ)が「あっちへ行こう、こっちへ行こう」と呼び合った、ということからこの名が付いた。

Kフロヤのため池……共同浴場があるらしい。

Lタシマ(田島)神社……氏神様が祀られた祠がある。明治42年に内務省により建てられた。

Mお茶工場建設予定地

 

*地名について

「波多」という名称が初めて出て来るのは、1102年(平安末期)イシシ文書の中である。当時この付近は海岸であり、それにちなんでこの名が付けられた。(地名は地形によって名付けられ、その名前から昔のその土地の生活や農業の歴史などを知ることができる。)その後、年貢徴収の検地用に付けられた名前の名残が現在でも見られる。

現在漢字表記をされているものでも、それは後の人によってカタカナに漢字が当てはめられたに過ぎないので、その漢字から受ける印象をそのまま受け入れてはいけない。

例えば「竹有」という字を見ると、「この地域には竹がたくさんあるのだな」と言うふうに思ってしまいがちである。しかし「竹」という字には本来「山」と言う意味があり(この場合の「山」は遠見岳(とうみだけ)のことを指している。)、「有」という文字は「荒」とも書き、この地に土砂崩れや地滑りが多いということを表しているのである。また、「山川」の「山」とは「森や林といった、木のあるところ」を意味し、「川」は「池・堀・泉のような水のあるところ」を意味している。

このように、地名は「物言わぬ歴史」として、私たちが歴史の研究を行う際に、非常に重要な役割を果たしている。

 

*小字について

・オチョウズ(御手洗)

・サンノツボ(三ノ坪)

・ワタウチ(綿打)

・モチダ(持田)……「モチ」は「餅米」のこと。即ち「餅米を作った田」という意味になる。

・ヤマノクチ(山の口)

・ヤマカワ(山川)

・ヤシキノタニ(屋敷谷)

・ミズツリ(水ツリ)……もともとは「水トリ」がなまったもの。水を取り入れる水路の入口だった。

・ボウノマエ(坊の前)……「坊」とは寺院ばかりでなく、約1350年前の大化の改新時代の「条里制」における「坪」の名称である。

・ナナツイシ(七ツ石)……「七」はよい数字とされている。

 

*村の水利について

上竹有のそばを流れる田中川と、地図中Hの位置にあるため池を主な水源としているが、普段はため池で充分間に合っている。干ばつの時は田中川から動力(ポンプ)で水を引いている。

3年前の大渇水の時は、別のため池から水道管を引いてきた。しかし米はそれほど高価でないわりに、水道管工事にはかなりの費用がかかったので、途中で中止となった。

 

*焼畑について

焼畑とは「キリハタ(切畑)」がなまったものである。竹有では行われおらず、周辺地域に「タケコバ(竹木場)、「イモコバ(芋木場)、「シゲコバ」として名前が残っている。

 

*村の道について

「□□ノウテ」の「ウテ」とは、「堤防・井手」のことである。昭和12年以前の田中川流域には、「××井手」と呼ばれる地名が存在していたが、「□□ノウテ」と言われるものはなかった。

 

*シュウジについて

この地域では「コウジ(こーじ、小路)と呼ばれており、徳須恵川流域に「××こーじ」(例えば「河内さまンこーじ」「てーすけンこーじ」など)がある。

 

*屋号について

竹有には特になし。

 

*入り会い山(村の共有の山林)ついて

かつては、山は村の人々が共有していたが、現在は個人の所有となっている。

 

*村の耕地について

竹有は他の地域に比べて田が少ない。裏作としては麦(ビール麦)を作っていたが、今ではほとんどしていない。化学肥料が入る前は、マヤノコエ(馬屋のこえ)という堆肥を使用していた。

 

*日々の行動記録

役場に着いてまず目に留まったのは、あの大きな石碑と、それに記された「村民憲章」だった。そこには北波多村の人々の平和を願う心が込められていた。

役場前で私たちは、上竹有の区長大西末男さんと、佐賀を代表する郷土史の大家山崎猛夫さんにお会いした。そして公民館で山崎さんのお話を伺った。山崎さんは私たちの質問に対して一つ一つ丁寧に幅広く教えてくださった。

その後役場の職員の陣内さんに上竹有の公民館まで連れて行ってもらった。途中で呼合橋を渡った。この橋の両側にはカッパの像があった。この村はカッパが有名で、役場の入り口にはカッパ五人衆(私たちの勝手な命名である)もいた。

そして公民館前で降ろしてもらい、そこから歩いた。まず、大西さん宅を目指していくと、すぐ裏にため池があった。次に田島神社に向かった。人にも会わず、いい天気だった。神社の入口付近から猫の鳴き声がしてきた。少し撫でてやってから階段を登り始めると、その猫は後をついて来た。周囲は高い木に囲まれており、風に揺れてざわめきをたてていた。猫の鳴き声は後から続いている。細い階段を登りきると、小さなほこらが建っていた。思ったよりも小さいものだった。空恐ろしい気がしたので急いで降りた。階段の下で再びあの猫が現れた。私たちは一刻も早くその場を立ち去ろうと、橋のほうへと足を向けた。その途中、大西さんの車に拾われ、日本一のお茶工場建設予定地に連れて行ってもらった。そこは急な斜面を埋め立てたところであり、山の切り口には教科書の写真のような地層が見られた。そこから上平野・下平野・山彦を車で巡り、再び役場に戻ってきた。残念ながら橋を歩いて渡る事は叶わなかった。

バスを待っていると大西さんが車で家に帰るところで、車の中から私たちに「お疲れ様でした」と声をかけてくださった。そして無事バスに乗って六本松に帰った。とても長い一日だった



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