【杵島郡白石町牛田、多田地区】 現地調査レポート 1MD96060 津留麻衣子 1MD96072 服部さがの
12月14日、私達は朝早く学校に集合し、バスに乗りこんで佐賀へと向かいました。しばらくバスに乗って佐賀へ着くと、それぞれの調査する地点で2、3人ずつバスから降りていきました。地図で確認すると私達がバスを降りる地点は、まだずっと先で最後の方であることがわかりました。しかし、最初の方は、コンビニなどもある市街地を走っていたバスもしだいに細い道へと入っていき、周りは田畑ばかりになって、だんだんと不安になっていきました。結局、私達がバスを降りたところは周りを田畑に囲まれた道端でした。私達が調査する場所はバスが来た道の東側だったので、そちら側へ少し入った田んぼの側で昼食をとりました。この日は晴天で暖かかったので、静かな田舎で外で昼食をとるのもなかなかいいなと思いました。 その後、道沿いの最初の家へ入ると、作業場で木のようなものをやすりでこすっているおじさんがいたので、話を伺うことができました。後で分かったのですがそこは代々たいこを作っている家で、それはたいこのばちだということです。そこで事情を説明すると、縁側の外へイスを持ってきてくれて縁側で地図を広げいろいろ教えて頂きました。そこでは田んぼのしこ名や橋の名前、水路の名前、水路の水の流れる方向、どの水路がどの水田に水を供給しているか、など三町北のことについて教えていただきました。 また三町北という名前の由来についても教えて頂き、ここでの三町というのは黒木町、新町、白川町のことを示すそうです。 また、水田のしこ名については数字のついたものばかりでなく、切地や北大詫間などの名前があることがわかりました。この家で聞いたのは以上のことです。 次におじゃました家では、押し売りと勘違いされ、昔のことなら新町にいる人の方がよく知っていると聞き、新町まで行きトラクターに乗っていた人に聞くと、最初の人とあまり知っていたことは変わらず、不便な水田というのは道路や水路から離れているものであったが、補助整備でもうそのようなことはなくなったと聞きました。 そして多田の方は、今泉の部落になるので分からないと言われたので、多田まで歩き、歩いている人に事情を言うとずっとこの村に住んでいる人の家を教えて下さったのでその家を訪ねました。その家ではおじいさんがいろいろ教えてくれました。しこ名や、水路の水はどこからどう流れているのか、村はどこからどこまでをさすのかなどです。また昔、隣の部落との水路の水争いをしていた地点なども聞きました。 その他は、以前は肥料として魚のくずや大豆のかすや堆肥などの有機物を使っていたのですが、今は化学肥料が主だということや、水路の水は長池からひいたものであるということ、数年前に日照りが続いた時は水源からの水の供給が不足したため、下手にある古井戸から水を上流の方へひきあげたということをお聞きしました。つまり、古井戸からひきあげた水を、下流から上流へ順にせきとめることによって上流へ供給するということです。この家で伺ったのはこの位です。私がこの調査で驚いたことは、昔をよく知っていらっしゃるお年寄りが少ないということです。途中で話したおばあさんもこの辺はお年寄が少ないと言っていらして、お年寄が多いと思っていた私には意外でした。 その後、時間になったのでバスを降りた所へ戻る途中にバスがいってしまうのを見て、バスに乗り遅れたことに気付きました。うそでしょ?という思いを持ちつつ、結局JRの肥前白石駅まで歩き、そこから各駅停車の電車で博多まで帰りました。 |