【杵島郡白石町廿治移地区】

現地調査レポート

1LA97248E水谷直人

1LA97273K山下勝義

情報提供者:片淵研吾さん(大正12年生)

調査日:19971213

 

今回は佐賀県白石町に調査に行った。一番初めに廿治移に行き、組合長の片淵氏にお話を伺った。その後廿治移の周辺と秀移の周辺を歩いたが、その日は祭りの準備があったらしく、留守のところが目立った。あちこち歩き回って、現地の方数人にしこ名のことを伺ったところ、小字名の答えが返ってきた。そこで改めてしこ名のことを説明したが、やはり小字名の返事が来た。最後には役場に行けという返事をもらい、聞き出すことができなかった。

幸い片淵氏からは3つのしこ名を聞き出すことに成功したが(1時間ほど粘った末に偶然聞けた)、他の農家からは以上のような成果だった。

また、片淵氏によるとこの地では、しこ名というよりも小字名+○番(例えば、一本杉の○番)というふうに呼んでいたらしい。○番というところには田んぼの質によって番号を振っていたそうである。この番号については聞き出すことができなかった。

その他いろんなお話が聞けたので、それをまとめてみた。

<当日の行動>

9:30西鉄久留米駅集合

10:00出発

11:30、白石町到着。各グループごとに調査開始。

11:50片淵氏方に到着、聞き取り開始。

13:20片淵氏にお礼を言った後、廿治移、秀移周辺を回る。

15:30別のグループと合流。

 

<しこ名>

村の名前:自石町廿治移(しらいしちょうはたちうつり)

話者:片淵研吾さん(T12,1/10)

小字名不明:サンノカク(三ノ角)、ゴノカク(五ノ角)、ロクノカク(六ノ角)

しこ名は以上の3つのみ聞き取り成功。

 

昔は、前述のとおり、しこ名というよりも小字名+○番というふうな呼び方が主だったそうである。(例:一本杉の○番)○番の決め方は田んぼの質によって決める。これについては聞き取りができなかった。

また、有明海側の福富町の方などでは、〜がらみ(搦という字が宛てられる)という呼び方の地名が数多く残っている。名前の由来としては、開墾された年代や開墾した人の名に因んでいる場合が多く、明治がらみ、大正がらみ、昭和がらみ、コジロウがらみ、ヤエモンがらみ、などと呼んだりしている。中でも<開墾した人の名前+がらみ>は多いそうである。

昭和12年頃に、キイハチヘイという人が村の人々に呼びかけて、戦争などで一時中断したりしつつ、苦労を重ねてやっと開墾した土地を、この人の名にちなんで、ハチヘイがらみと名づけた場所がこの地の近くにあるそうだ。ちなみにこのキイハチヘイという人は、フーツーさん(区長のこと)だったそうである。

<開墾者の名前十がらみ>の場合、フーツーさんの名+がらみ、もよく見られるらしい。また、がらみ以外に、トミノスケジンチ等、〜ジンチと呼んでいるところもあるそうだ。

 

<水利>

昔は、ため池や雨水に頼っており近くの六角川からの引水、つまりアオ取水は行なわれていなかった。

現在、この村の水田にかかる水は上流のダムから引いている。

区画整理がなされた後、農道や水路が縦横にきちんと走り、数十町歩に1台くらいでポンプが備え付けてあり、各村ごとに役員が出てポンプの操作を行なっている。田に水を入れる時期になると、田の持ち主は役員にお願いして自分の田に水を入れてもらう。

一番大きな水路のことをジチン(漢字不明)水路といい、この水路には井堰が設けられている。ダムから引いてきた水は日程を決めて、井堰の開け閉めを行ない各村に配分する。井堰の開け閉めは水利組合からの通達によって個人で行なう。(中には勝手にする人もいるそうだ)

水利組合には全員が加入し(強制ではないが、入っていなければ水は来ない)役員の手当は組合費から支出される。組合費の負担額は持っている土地の面積によって決まる。

(;10a当たりの負担額×所有面積二組合費負担額)

役員については持ち回りだったり固定されていたりで、各村によってさまざまである。

洪水になると、井堰を開けて水を有明海の方へ流してやらねばならないが、町境の井堰を開けるには隣町の許可が必要。逆に水不足になると、この辺りの低い地域ではまだいいが、上流のダムのほうでは水不足が深刻になるそうだ。(水は高いほうから、低いほうに流

*ジチン水路の図面アリ。(省略)     

 

<村の状況とこれから>

就農率:かっては80%の時期もあったが、年を追うごとに減り続けている。(今では%で表わせないのでは、とおっしゃっていた)

複合経営:以前は米と麦を作っていたが、最近では稲作と園芸、畜産に変わっている。実際、片淵氏のお宅にも豚舎があったし、他の農家にも豚舎を構えているところがあった。

また、この辺りではたまねぎの生産が盛んだそうだ。

1994年の大旱魃の時は、やはり不作で0俵の所もあったそうだ。また、今年(1997)も不作の方で、片淵氏のところでは7俵だったそうである。因みに去年は9俵。

 

<感想>

今回の調査地は佐賀県白石町だった。朝9時半に西鉄久留米駅に集合し、車2台で現地に向かった。昼前に現地に到着し各グループごとに調査を開始、自分たちは割り当てられた廿治移、秀移に移動した。

まず初めに、アポをとっておいた廿治移の区長、片淵研吾氏の家を訪ねた。おそらく息子さんだろうと思われる方が(といっても40代くらいだが)豚舎にいらっしゃって、自分たちの対応をしてくださり、この辺りの現状や区画整理後の水利のことなどを、図を書いて説明してくださった。

その後、片淵研吾氏が出てこられて昔のことを話していただいた。隣の福富町のほうに見られる〜がらみという地名の由来や、干拓がどのように行なわれていったかなども話していただいた。

片淵氏の家を後にした自分たちは、他の農家の方にもお話を伺おうと廿治移、秀移周辺を回ったが不思議とも思えるくらいに人がいなかった。住宅地図を見ながら何軒かの家を訪ねたが、留守のようで応答がない。ある家など、玄関を開けっ放しにしたまま出かけている様子で、大声で呼んでも返事がなく、犬にさんざん吠え立てられただけだった。ちょうどその家には豚舎があったので、もしかしたら、と思いつつ覗いてみたが誰もいなかった。豚は見知らぬ自分たちにびっくりしていた。

やっと人を見つけて、九大の者でしこ名の調査をしている旨を告げ、知っていたら教えてくれるよう頼んでみたが、「あー、松とか杉のことね。」といわれ、もう一度、小字名ではなく自分たちで勝手に付けた田んぼの私称地名のことを知りたいのだと説明したが、「そういうのは役場に言って事情を説明すれば教えてくれる。」とおっしゃっていた。これ以上追求することがはばかられたので、その家はあきらめることにした。

その後、何入かの人に尋ねたが同様の答えが返ってきて、どうしようか途方に暮れてしまった。

片淵氏からお話を伺っている時、幸い3つのしこ名を聞き出せたので、自分たちはそういうものを調査しているのだと言うと、「杉の何番とかそういうのの呼び方はしてたかね。」とおっしゃったので、それを聞き出そうと試みたが、できなかった。

他のグループと合流し調査は進んだか聞いてみたが、同様の結果だったそうで、しこ名

は使ってないと言われたところもあったようだ。また、人がいなかった原因はどうやら祭りの準備が行なわれていたことと、別の地区では葬式が出ていたことにあるらしかった。

しこ名は3つしか集まらなかったが、片淵氏親子には親切に対応していただいて土地の名前の由来から干拓のこと、後継者不足のことに至るまで(なかでも就農率が今では%で表わせないくらいだと言われたときはそこまで深刻なのかとびっくりした。)いろいろな話を聞けて、社会勉強としては貴重な体験だった。私事ではあるが、小さい頃祖父から話をしてもらったときのことを思い出した。

1LA97273山下勝義

 

 

今回の現地調査は佐賀県白石町に言った訳だが、私たちは自家用車2台で、去る1213()に行った。天気はまずまずだったけれども肌寒かった。

白石町に着くと一面水田ばかりだったので、今回はたくさんのしこ名を集めることができるのではないかと期待した。しかし、どこの家を訪ねても次の日が祭りということで忙しそうで聞くことができなかった。結局電話でアポをとったお宅でしか話を聞くことができず、しこ名を集めることはできなかったが、

白石町の昔のことや水利についてはけっこう詳しく聞くことができた。

私は前期のときも佐賀県の七山村に今回と同様に現地調査に行った。そのときに聞いた話と今回聞いた話で共通していたことは、昭和4546年の滅反政策により、多くの農家が水田だけでなく養豚を営んだり、水田を果樹園にしたりと苦労されているという点である。やはり農業を営み続けるというのは人手の点からも経済面からも大変だと分かった。

今回は十分な調査ができず残念であったがこのように実際に農業の現状を調べて歩くというのは有意義なことだった。

1LA97248水谷直人



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