【杵島郡白石町小島、内堤地区】

歩き見ふれる歴史学 佐賀調査記録

1MD96073 花村 敬子

1MD96090 本永菜穂子

☆聞き取りをしたおじいさんの名前と生まれた年

・松尾和良さん:昭和7年生まれ

・江口徹さん :昭和15年うまれ

 

☆しこ名一覧

田畑

小字 小島のうちに

ミチシタ(道下)、サトダ(里田)、ヒガシホクイ(東北里)、ホクイ(北里)、ジョウウラ(城裏)、タチ(館)

小字 内堤のうちに

マチウラ(町裏)、ウラシイドウ(裏水路)、オミナミ(御南)、オヒガシ(御東)

 

☆用水

○男島(小島城後のある山)のふもとの池と湧水

 ・今はすでにない(大正時代ぐらいまで使用)

 ・小島単独で使用。水争いは無し。

○内堤にあるナガビャシ(長林)、ジョウボリ(城堀)という用水路

 ・ナガビャシは、2本平行して走る用水路で、2つの用水路の間は竹林となっている。その昔、ナガビャシ(長林)は隆城の中堀で、竹林(地図によると枳殻土手)は弓矢を防ぐためのものだった。

○縫の池

 ・湧き水が多かったため昭和20年ぐらいまではあちこちに配分。

○嘉瀬川の溜池

 ・ポンプであちこちに配分。今も使用している。

 

☆昔の配水の約束事、水争いの有無

 ・面積に応じて部落ごとに配水の時間が決まっていた。

 ・水車で勝手に夜中に水を流す人がいたので、ハメコウジなどの重要箇所には、夏に外に蚊帳をひいて水の番をしていた。

 

☆部落共有地

 ・男島…個人 6分の1、入り会い 6分の5

 

☆田の良し悪し

 ・水の便利の良い所が良田で、男島のまわりは一等田だった。今は機械化により平等。

 

☆肥料

 ・昔は大豆かす、にしんかす、人ぷん尿などを使用。(人ぷん尿を生業にする人もいた)

 ・今は化学肥料、牛ふん、鶏ふんなどを使用。

 

☆一日の行動記録

 AM11:30、私たちは、バスから降ろされた。だだっぴろい農地がひろがる。これからどうすればいいのだろう?私たちは現在地を地図で確認した後、まず小島から調査を開始することにした。

 一軒目、チャイムを鳴らしたが応答がなかった。留守かと思い、裏へまわってみると、裏口でしいたけを干していたおばあさんにあった。とりあえず、主旨を伝えたところ、「私にはわからないけどねぇ、そういえば男の人たちは水田のことを何やら言ってるねぇ。眼鏡がないと地図が見えないから、眼鏡持って来るね。」と言っておばあさんは家の中へ消えた。しばらくして帰ってきたおばあさんは、「立って話すのはなんだから。」と言って、庭に出ていた長いすの上に干していたとうがらしをどけて、私たちを座らせた。

「あー、男の人たちは何やら言ってるけどねぇ。私は女だし、違う土地から嫁に来たもんだからねぇ。わからないねぇ。ええと、これが男島城ね…あー、よくわからないねぇ。」

 しこ名のことは聞けなかったが、私たちはおばあさんに現在地と、区長さんの名前と家を聞くことができた。

 私たちはおばあさんの家を後にして、教えてもらった区長さんの家へと急いだ。おばあさんは松尾さんと言ったが、区長さんも松尾さんと言った。おばあさんが区長さんの家だと教えてくれた家にたどりついた。が、表札をみると違う名前だ。私たちはあわててしまった。その時、すぐ隣りの家のおじさんがいるのが目に入った。ジャージにTシャツ。なかなかの体つきだ。きっと区長さんのことを知っているはずだと思い、訪ねてみると、公務員なので田のことは何も知らないとのこと。とりあえず区長さんの家は教えてくれた。その家につき、玄関に行こうとするが、よく見ると家のまわりに堀がある。ぐるっと家のまわりをまわってようやく玄関にたどり着いた。ベルを押すと、おばあさんが出てきた。自己紹介と訪問の主旨を伝える。しばし待つと、白い車で娘さんと、孫と思われる人たちが帰ってきた。区長さんは思ったより若く、体つきもがっしりしている。農家をたばねまとめているという感じだ。話を切り出すと、色々なお話をしてくれた。

「この辺りが…うーん、じょううら(城裏)じゃなぁ…城の裏だからね。じょううらというんだよ。」

 思ったより若い人だったので、しこ名や用水のことはわからないかなぁと思ったが、そんなことはなかった。城の堀の話やら何やら、色んなことを教えてくれた。途中で近所の江口さんもやってきて、話に加わった。

 「昔は一町を〜のつぼ、と呼んでいたけど、今は区画整理されて、そういう名前は、この地図じゃわからないなぁ。昔の地図じゃないと。」

 「小島城のところには、昔、池と湧水があったんだよ。これに関する争いはなかったけどね。じょううら(城裏)とかたち(館)に全部行っていたよ。良い田というのは要するに水がよくくる田のことだから、昔、池や湧水のあったこの城裏や館なんかが一等田だったね。今は機械化されているからみんな同じだけどね。今は肥料は化学肥料がほとんどだけど、足りないからその分は牛ふん、鶏ふんを使うんだ。昔は大豆かす、にしんかす、人ぷん尿を使っていたんだよ。学校の先生でも、人ぷん尿を使って商売する人もいたんだ。」

 「昔はおへや(御部屋)とかいう家もあったんだよ」

 「うちが建つ前、だから50年くらい前かな。ここはてつぞうさんという人の田だったんだ。だからうちは“てつぞうやしき”と呼ばれていたんだよ。」

 「昔はあの農道(県道久間・白石線)は幅2〜3mの小さな道だったんだよ。今は8mになったけどね。わしらが小学生くらいの時は夏は裸足で学校に行ってたんだよ。白石女学校の女の子らもみんな裸足でね。白石女学校は“とっと学校”と呼ばれてたんだよ。とっとっていうのは方言で鶏のことだよ。冬はさすがにわらじをはいていたけどね。道路は舗装されてなかったね。」

 「この地図には火葬場があるけど、今はもうないよ。」

 「今もそうだけど、昔は山のふもとにある嘉瀬川の溜池から水路をひいていてね。だけどそれだけじゃ足りなくて、かわずの溜池(縫の池)からも水を引いていたんだ。そこは湧水が多かったからね。そこからは昭和20年くらいまで水をひいていたね。あちこちに配分していたから争いも多くてね。この村では何時から何時まで水を流すという決まりがあったんだけど、夜中に水車で勝手に水を流す人がいたんだ。だから要所となるところには、夏は外に蚊帳をひいて水の番をしていたんだよ。水路に水が流れないようにね。水の調節は“はめこうじ”というところでやっていたんだよ。ここの水量は嘉瀬川の溜池の10分の1ぐらいだったよ。」

 「配水の約束事というのは、今も昔も面積に応じて部落ごとに時間が決まっていたんだ。」

 「城のまわりにある水路の名前はナガビャシ(長林)と、ジョウボリ(城堀)というんだ。この水路は、昔、平行な2つの堀からなっていて、間は竹林だったんだ。そうやって矢の攻撃から城を守っていたんだ。城にはもちろん内堀があって、この水路を中堀、そして有明海を外堀にして城を敵から守っていたんだ。」

 「小島城の土地は個人の土地、私有地が6分の1くらいで、部落の共有地、入りあいは6分の5くらいだったかなぁ。」

と様々な話を聞かせてくれた。

 「学部はどこだね?教育学部かね?工学部がこんな調査をしにくるとは思えないけど。」

 「あ、医学部です。」

 「おやおや、お医者さんになるのかね。そりゃあ九大病院に行ったらよろしくお願いするよ。」

 「いや、まだ1年なので何もわかりません。」

 「はっはっは」

 しばしもりあがる。ふと時計を見ると既に1時間がたっていた。こんなに長く色んな話をしてくれるなんて、なんていい人たちなんだ!と感動を残しつつ、私たちは松尾さん宅をあとにすることにした。

 「本当にありがとうございました。」

 「いやぁ、昔のことだからよくわからない。すまなかったねぇ。わからないことがあったら電話でもしてくださいね。」

 松尾さんたちにほとんど必要な話を聞くことができた。しかも内堤の区長さんの家も教えて下さった。が、事前に連絡をしていなかったこともあり、区長さんは留守であった。歩いていくと、小さな溜池のようなところがあり、子供たちが釣りをしているのが見えた。その池の真ん中にはなんと、内堤・小島の城をも含めた昔のこの地区の模型があるではないか!土地の歴史の説明の記された看板もある。私たちは急いで使い捨てカメラを買いに行った。随分歩いたところに、小さな商店を見つけそこで使い捨てカメラを入手した私たちは、先ほどの模型のところまで急いで引き返し、シャッターを押しまくった。さらに、それだけではあきたらず、私たちは内堤の城跡(今は低い山というか小高い丘のようになっている)に登り、小島・内堤の全景をも写真にとることにした。城跡の頂上は、ところどころ巨大な石が転がり、一面すすきでうめつくされていた。城のまわりは堀の名残りか、竹がたくさん生えていた。ピクニック気分半分でやってきた私たちも、さすがにしんみりと昔、この地に住んでいた人々に思いをはせた。歴史を学ぶというのは、こういうことなのだろうか。昔、この地でどんなことを思い、どんな風に生活していたのだろうか。しばらくぼんやりした後、私たちはなんともいえない充足感を抱きつつ、山を下りることにした。

 そして、バスに降ろされた場所で、私たちはかなり遅い昼食を取りつつ、バスを待つことにした。歩き、み、ふれる歴史学。正にこの言葉どおりの一日であった。歩き、そして、み、ふれたこの土地の歴史は、私たちに何かを教えてくれたような気がする。歴史は机上で学ぶものではないのだと痛感した調査であった。今、確実に言えることは、「この授業をとってよかった」ということである。歴史をここまでおもしろいと思ったことはなかった。歴史は生活の中に根づいているのだとしみじみ思った。本当に充実した一日であった。きっと忘れられない日になるだろう。そして、いつの日か、もう一度あの土地を訪れることができたら、と思っている。

 

※写真省略

安政三年の内堤・小島周辺地図

 

※写真省略

隆城、男島城や周辺の堀の歴史の説明書き

「百町牟田を排水し、溜池を築造」とあるが、それが嘉瀬川の溜池?

 

※写真省略)

小島・内堤一帯の模型。隆城の手前の二重の堀の構造がよくわかる。

 

※写真省略

かわずの溜池(縫の池)。昭和20年頃まで使用していた。

 

※写真省略

隆城跡からとった、内堤・小島の全景。中央右に見える山が男島城跡。



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