【杵島郡白石町揚田、上廿治地区】

農村・山村を歩いて考える現地調査レポート

1LT97028  江藤千晴

1LT97043  加来知行

調査日 1997年12月7日

 

交通手段 鉄道

 

協力者氏名

 大曲初郎さん 大正8年生

 中村忠雄さん 大正11年生

 

1、しこ名について

田畑

小字北川のうちに

江湖

屋号

須古町のうちに

泉屋(深川)、ろう屋(鍛ヶ江)

 

酒屋・秀津(入般)

古道

小字上廿治のうちに

江越道路

小字揚田のうちに

長崎脇街道

堤防

福富町のうちに

五千間堤(でい)or松堤、六千間堤

※屋号の位置についてはわからなかった。

 

次のような理由からしこ名を集めることができなかった。

@通称は全て役所に登録している名称と一致する。

A通称及びしきたりに詳しいのは役員を経験した農家の人のみだが、その人達は既に亡くなっている。

B圃場整備の際に昔の堤防を壊したため、田の形が昔とかなり異なっている。

 

2、水利について

@干拓

 鍋島勝茂公が干拓事業を始めた。廿治と福田は干拓地であるため、家が東西に並んでいる。

 

A貯水池

 ・溜池(50〜80t)貯水能力はあまりない。

(昭和7、8年〜10年ごろ)

クリークの中に立っている水車を使って人力で水をくみ上げていた。時間給水有。

(昭和24、5年ごろ)

 バーチカルポンプを使用。→圃場整備の際に共同のポンプとなる。

 ・ダム(80t)

 朝日ダムと永池ダムがある。築切村。

 ・北有明村から白石に引水している。

 

B水約束について

 明治9年か14年に決められた水約束がある。

 ・クリーク周辺の竹や木を切ってはならない。

 ・決められた時間以外は水をとってはならない。

 ・しかし、魚は釣って良い。

 など。

 

C干ばつについて

 堀から水を汲み揚げるのだが、それでも足りないからダムを作った。アオも使う。犠牲田はなし。

 

Dアオについて

 7月から8月にかけて使うことができるが、海に近いため滅多に使わない。使うとすれば干ばつの時くらいだが、川の水位が低いため雨が降らなければ引水できない。

 

E井樋番について

 「水利人さん」と呼んでいた。手当有。現在は国から6000円ほど支払われている。

 

Fごみについて

 クリークの底にたまる泥土を地先の農家の人が肥料として使っていた。

 

3、耕地について

 全て湿田で粘土質であるため、弾丸暗渠排水(田の地下に穴を掘る排水法)による乾田化を進めている。良田である。

 

4、古道について

 基本的に牛車道路である。米を運ぶ牛車や旅人が通っていた。

 

5、村の過去について

@米以外の現金収入について

 ・麦 裏作として

 ・かまぎ むしろのようなもの。「かまぎ買いさん」がおり、米俵として使われることが多かった。

 ・れんこん 上廿治の特産品である。

 ・畳のしきわら 「わら買い人さん」がいた。

 

A村の祭りについて

 ・八坂神社の春祭り 毎年2月の13日に行われ、金剣まつりと呼ばれる。この時期は五万人もの人が白石を訪れるという。八坂神社はスサノオの剣をまつった神社。

 ・八坂神社の夏祭り 毎年7月13日に行われる。

 ・引山 秀津町で行われる。五穀豊獲を祈る。

 

6、村のこれからについて

 白石では年々人口が減少している。しかし家の戸数は増加しているのである。これは核家族化が進んでいるためである。当然一人ぐらしのお年寄りが増えていくだろうし、そこら辺が心配である。

 

7、調査を終えての感想

 中村さん宅にたどり着くまではどうなることかと心配したが、無事調査を終えることができて良かった。今回は普段特別な興味を持っていなかった水利について考えることができた。(江藤)

 色々な話が聞けて楽しかった。お年寄りは色々と知っているのだなと感心した。農村の空気はおいしかった。(加来)

 

8、行動記録

 12月7日、午前7時30分六本松バス停に集合。そこからバスで博多駅へ行き、午前8時15分発の電車に乗り目的地の白石町を目指す。午前10時30分ごろJR肥前白石駅に到着。この日の午前11時にお話をうかがいにいく。と予約をとっておいた揚田の溝口さん宅に電話を入れ、「今からお宅をうかがわせて頂きます」とお伝えしたところ予期せぬ返事が返って来た。なんと溝口家で不幸事があったというのである。ここで我々は急遽予定を変更し、中村さんというお宅に電話を入れた。この人には前もって連絡は入れておらず、これが最初の電話であったのだが、我々の「これからお宅を訪問してお話をうかがいたいのですが」という頼みを快く引きうけて下さった。10時40分ごろ中村さんのお宅へ向け出発。しかし道に迷ってしまう。地図を見ながら進むのだがどっちへ行けばよいのかわからない。公衆電話も見当たらず、中村さんに電話して道を尋ねることもできない。仕方がないので付近の民家の門をたたき道をたずねる。かなり親切に対応していただいたのだが中村さん宅はご存知でなく、公衆電話のある所を教えていただいた。そうこうして中村さんのお宅にたどりついたのは、11時30分ごろであった。それからお話をうかがった中村忠雄さんは大正11年生まれ。なんとも感じがよく話の好きそうなおじいさんであった。話を聞き終わったのは午後1時30分ごろ、お昼時にお邪魔して誠に申し訳ないことであった。

さて、この日の予定では午後2時に大曲初郎さんという方を訪ねることになっていたので、中村さんに大曲初郎さんという方のお宅を御存知ないですか、とお尋ねしてみたところ、「大曲先生かね、あの人は村の歴史にくわしいよ」というお返事をいただき、家への道も教えていただくことができた。大曲先生のお宅についたのは約束の時間ぴったりの午後2時であった。呼び鈴を鳴らすと、大曲先生の奥さんとおぼしき人が出ていらっしゃったので、「先日電話をした九州大学の者ですが」と申し上げたところ、「はい、お待ちしていましたよ」というお言葉をいただいた。この「お待ちしていましたよ」という一言が妙にうれしかった。そして「九大の学生さんがみえましたよ」という奥さんの言葉で登場した大曲初郎さんは、体は小柄であるが風格のただよう紳士であった。大曲先生は村の歴史の話の他にも、村に伝わる伝説なども話してくださり、さらに貴重な資料まで我々にくださった。結局、大曲先生の宅を出たのは5時すぎであった。それから白石町の特産物であるれんこんを買い、肥前白石駅にもどって来た。駅で1時間ほど電車を待ち、白石を後にした。六本松に戻って来たのは午後8時すぎのことであった。



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