【杵島郡白石町船野、嘉瀬川地区】

1MD96081 増村千佐子

1MD96085 松永真季

 

◎聞き取りした方(敬称略)

 船野 :光吉たかお(60才)

 嘉瀬川:市原

     外尾勇(大正10年生まれ)

 

◎一日の行動記録、及び古老から教えて頂いたこと

 水堂入口停留所(隆城跡南)でバスを降り昼食をとりつつ今後の予定を検討した。周囲には畑や田んぼが広がり、あまりの何もなさに途方に暮れていたが、杵島神社に行けば誰かいるだろうと思い、杵島神社に向かった。

 神社への途中の農家の表でおばあさんが農作業をしているのを見かけ、とりあえず声をかけてみた。しこ名の意味を理解してもらえず、畑仕事は息子にまかせてある、と言われすぐに引き下がることにした。さらに進んで神社が見えてきた時、神主が居ないかもしれないことに気付き、付近の農家で古老を見つけることにした。

 畑で、夫婦で働いている所を見つけ、おばあさんに声をかけると、宗教の勧誘と間違われ、不審そうに見られたが、ねばって説明すると、快くお父さんの方がよく知っているから、とおじいさんに尋ねてくれた。話はうまく伝わり、自ら地図を見て教えてくれた。もっと詳しく知っている人がいる、と船野の栗山さんの家を教えてくれた。一度行きかけたが、本人の名前を聞いていなかった事に気付き戻ると、船野の田のしこ名を全て地図に書き込んでくれた。これが光吉さんだった。

 次に嘉瀬川に向かい、一番初めに外で働いている人に声をかけた。かなり若かったのですぐ話は伝わり、知っている名前を5つほど教えてくれた。用水路の名前も教えてくれた。そして、すぐそこに区長さんの外尾勇さんの家があるから、そこで尋ねる方がよいだろう、と教えてくれた。この人が市原さんです。

 外尾さん宅では、小屋でおばあさんが漬物をつけており、声をかけると、勇さんを呼んでくれた。勇さんは、とてもしっかりした人で、あらゆる地名や呼び名を教えてくれた。地図を何枚も広げて話をしていたので、家の中へ招いてくれた。そこで様々な話をしてくれた。

 (村の水利)白石町の水源は主に嘉瀬溜池と船野溜池である。嘉瀬川溜池は有明町の久治と共有しており、細かい決まり事はなかったものの、やはり給水は時間割制度があったという。昔は、ポンプがなかったため、人がこいで水車を回し水を田に引き入れたそうだ。その為、多くの田をもつ人は人を雇って水車をこいだという。白石町全てに水を供給するには、2つの溜池では不十分であるため、白石町の中には、隣町の北方町に土地を買って造った、永池溜池と焼米溜池からも水を引いている地域もある。

 (旱魃)1994年の旱魃では枯れた田はあったもののそれほどの被害はなかった。それよりも10年ほど前の旱魃の方がひどく、下流から水をポンプで引き上げなければならなかった。また、この地域では昭和32年ごろ、駐留軍に米を納めるため、さかんに井戸を掘り、地下水をくみ上げた。その影響が現在に及び、地盤沈下が問題となっており、小学校など建て直すまでになっているそうだ。

 (入り会い山)この地域では入り会い林といい、国有林を借りて村で共有していたそうだ。そのため、収穫の六分は国に納めなければならなかった。

 (村の耕地)山のふもとから約100mは水位が高く湿田であり二毛作には不向きであった。しかし昔は、無理をしてでも裏作を行っていたそうである。化学肥料が導入される以前は鰯などをくだいたものと、肥溜とを混ぜて肥料としていたそうだ。

 (村の道)この付近には××ノウテはなかった。

 (村のこれから)現在は後継者不足に悩まされている。昔は田んぼ1丁からの収入で一家5〜6人を養っていけたが、今は高卒の給料程度の収入しか得られず、一家に一人は外に働きに出るようになった。それには、機械の導入により、農作業も楽になり、人手もかからなくなった為、田畑が老人にまかせきりになったという事も理由として挙げられる。将来は、農協が人を雇って農作業を委託するようになってしまうだろうと話していた。

 以上のような話をして下さった後に、白石町のあゆみを記したパンフレットなどを貸して下さった。さらに、お礼を言って帰ろうとした私たちをバスの停まっている場所までわざわざ車で送って下さった。



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