【唐津市夕日】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97080 田崎 桂子

1LT97081 帯刀 美樹子

 

 

話者:加茂 康敏さん(夕日地区長 57歳)、他

 

*夕日

 エノサキ(江ノ崎)    ……これは田の名前。

 ニタダ(荷多田)     ……荷が多い田(良田)。

 ヒラマツ(平松)

コハル(小春)

サカモト        ……坂本さんの田、持ち主の名から。

ダゴデ         ……団子から。

ヒヤケダ        ……水が涸れることから。

キタタニ(北谷)

カゲヌキ

ミノダ

チュウゴダニ

ゴロウジダニ      ……五郎爺さんの田。

カミンヤマ(カミノヤマ)……神の山。山神が住む山の麓にある共有山林。秋、収穫後にお供え物をする。

クルマイデ(車イデ)

イチノサカ       ……昔は坂道だった。

ヤスミバ        ……坂を登った所で休憩するということから。

タカタニ(高谷)

タニゴンカワ      ……沢の名前。坂本さんの家(屋号がタニゴ)の近くにある。

タニゴ         ……坂本さんの屋号(坂本庄治)

コウジヤ        ……大木さんの屋号(大木直茂)

サカヤ         ……加茂輝男さんの屋号。

ホリキリ

マガリ         ……曲がり道のこと。

*田畑

 小字江ノ崎のうちに        エノサキ、ニタダ、ヒラマツ、サカモト、ダゴデ、コハル

 小字船石のうちに            ヒヤケダ、キタタニ、カゲヌキ

 小字川原田のうちに        ミノダ、ゴロウジダニ

 小字船石のうちに            カミンヤマ

*水路

 小字船石のうちに            ホリキリ

 小字川原田のうちに        クルマイデ(今はない)

*地名

 小字船石のうちに            イチノサカ、ヤスミバ、

キタガワ(北側)、ミナミガワ(南側)

※加茂啓さんの家から木下直茂さんの家を結んだ線で区切った北側と南側をそれぞれこう呼ぶ。

 小字江ノ崎のうちに        マガリ

*沢

 小字船石のうちに            タニゴンカワ

*屋号

 小字船石のうちに            タニゴ

                                           コウジヤ(昔その家がしていた職業から)

                                           サカヤ(昔その家がしていた職業から)

 

<肥料について>

昔は有機肥料である「クサ」のみを用いていたが、クサは作るのに手間がかかり、現在は兼業農家が多く忙しい人が多いため、化学肥料も併用している。しかし化学肥料を使用すると土が酸性になり地力が低下するため、有機肥料をできるだけ用いて地力の回復を図っている。また、酸性になった土地をアルカリ性にするため、レンゲなどのマメ科の植物を田に植えている。現在は無農薬を目指している。

※現在使われている有機肥料はクサの他にワラがある。

※クサの作り方―水田の南側に木があると水田が日陰になるため木を切る。すると草が生い茂るので、その草を用いてクサを作る。

 

<燃料について>

燃料として薪を使っていた頃は、薪を夕日山から採ってきていた。夕日の人達は山が近かったのでそうすることができたが、山から遠い村の人達は薪を採りに行くことができなかったため、夕日の人達が売っていた。物々交換ではなかったそうだ。

また、夕日山から採れるものとしては竹がある。これは建築資材として用いられていた。

 

<“車イデ”について>

水車を用いて粉引きをしていることにちなんで水路につけられた名前。今はもう跡も残っていない。

 

<田の良し悪しについて>

収穫量の違いは水の温度にあるそうだ。湧き水などの冷たい水では稲は育ちにくく、ぬるい水の方が多くの稲が育つ。水がぬるいと稲の株が分かれやすいためである。山からの湧き水で育てているチュウゴダニやミノダはあまり良い田ではなく、平地にあるニタダ(荷多田)はその名の通り多くの収穫が望める田である。

田の良し悪しの原因には土の質、排水に関係する土の深さもあるが、主な要因は水の温度なのだそうだ。

 

<土着信仰にみる村の文化>

夕日地区の区長の加茂康敏さん(57歳)は私たちに村に昔から伝わるお祭りや、その由来についていろいろな話をしてくれた。夕日観音堂に安置されている木造千手観音菩薩立像や“キシタケバッスンサン”という名の野墓の話などである。ここではそれらに対する人々の信仰から、村での生活の営みについて考察してみる。

 

1.夕日観音堂

夕日山の麓、ちょうど集落の裏手に位置するこの観音堂は地区の人々の信仰生活の中心となっており、さまざまな年中行事がとり行われる。

@本尊

『木造千手観音立像』

木造千手観音菩薩立像は榧材を用いた一木造りです。彫眼の像で、内刳りは全くなく、右の鎖骨あたりには木芯が認められます。本来は十一面、四十二臂の像であったと思われますが、現在では合掌手以外は後補にかわり四十臂となっています。他の後補部分は頭上仏面のすべてと足先です。

合掌手では指先まで、宝鉢手は肘まで本体と共木から彫りだしています。左手第八手が古様を示していて当初に作られたものの可能性があります。脇手は背中中央で矧ぎ付け、頭上仏面は頭上に穿った穴に差しています。頭上面は、後ろ正面とその左隣の二面が古様で、他の九面は新補です。耳朶に穴は穿たず、像底に台座に固定するための穴を開けています。

裳に見られる翻波式の衣文や、耳が長く耳朶が外に反り、口唇がとがる表現は力強く優れており、平安初期の彫刻に通じるものです。しかし全体に彫りがやや浅く表現に厳しさが薄いことから、実際の製作は平安時代中期(10世紀〜11世紀)と考えられます。

本像は三田川町東妙寺の聖観音立像とならんで県内で最も古い木彫仏であり、佐賀県とくに松浦地方の平安文化を伝える数少ない資料としても貴重です。

県指定(指定年月日:平成6331日)

※資料提供:夕日地区長・加茂康敏さん

・この観音像は、佐賀県により平成6331日重要文化財の指定を受けた。

・それまでも村人たちの手によって大切に受け継がれてきた。今も17年に1度の御開帳は執り行われている。最近では平成2年。

・またこの仏像は平成91月から3月まで、佐賀県立博物館で行われた仏像展にも出展されていた。

A疫病退散のお祓い

夕日観音堂で行われる行事の1つに、毎年7月初めに夏の間の村人の健康を祈願して行われる疫病退散のお祓いがある。

今年はなんと私たちが調査に伺った76日(日)に行われるということで、一緒に参加させていただいた。

お祓いの始まる2時近くになると、村の人たちが次々に集まってきて、区長さんが連れて来られた和尚さんの読経で儀式が始まった。読経が済むと和尚さんが11人に対して、疫病退散の他、腰痛治療や学力向上など各々にふさわしい願い事をしてくれるのである。私たち2人もやってもらえた。

お祓いに来られない人の代わりに、家族の人が風呂敷に包んだその人達の衣服を持参し、お祓いしてもらっている姿も見られた。

お祓いの後、村への通路となる3本の道路の入り口に疫病や悪霊が入ってこないようにと、3分の杭が各々打ち込まれて、この儀式は終了である。

 B千日祭(センニチサイ)

これも夕日観音堂で夏に行われる行事である。

毎年810日の晩、神社の道順に飾りをつけ、夜の12時にみんなでお参りに行くのである。

昔は出店も出て、子供達の夏の楽しみの1つであった。

 

2.キシタケバッスンサン

次は夕日観音堂に次いで、人々の深い信仰を集めている“キシタケバッスンサン”についてである。

@由来

450年の昔、現在の東松浦郡北波多村の位置にあるキシタケ城は、秀吉の討伐を受け、水攻めの苦難を味わった。その敗戦の時討ち死にした武将の野墓が“キシタケバッソンサン”と呼ばれるものであり、“バッスンサン”の「ス」は「ソ」がなまったものなのである。

A信仰

水攻めに遭い、渇いて死んでいった兵士を悼んで、今でも夕日地区をはじめ、各地に残るキシタケバッスンサンを有する村では、毎年盆と正月に墓の掃除と水あげを欠かさない。

 

*最後に*

区長さんにお話を伺ったり、お祓いの見学に行った夕日観音堂で村の人達と接したりする中で感じたのは、やはり、村の人達の、自分の村、共同体に対する強い愛着である。

おじさんやおばさんたちは誇らしげに千手観音の仏像展出展のことを語ってくれたし、子供たちは夕日観音堂の周りの急な山道を、慣れた様子で飛び回っていた。聞いてみると、そこは子供たちの遊び場の1つなのである。

区長さんは私たちの質問を受けてくださりながら、「こうしてみると村の行事も、のうなったのうなった、ゆうばってん、結構残っとるもんですたいな。」と納得されていた。

田園地帯に残る歴史と、そこに住む人たちの素朴な香りに触れることができたこの調査は、とても楽しいものでした。



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