【唐津市山本】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LT97062 斉藤 珠美 1LT97070 須尭 悦子 1LT97036 荻野 由喜
調査日:1997年7月6日(日曜日) 話者: 福田 福治さん(昭和4年生まれ、元農産組合長) 前田 淳一さん(現農産組合長) 畑仕事をしていたおじいさん、おばあさん、 一輪車をひいていたおばあさん
◎しこ名について 質問をしたどの人も小字の地図@を見て「これを現在でも使っている」という話だった。福田さんによると、福田さんが小さい頃からその呼称を使っていて、それを現在までずっと使っているそうである。 現在と違うところ: (以前)中津・神田 → (現在)中津市
◎水利 <村名:山本>
◎水利と利用慣行 Q:村の水はどこからどのようにして取り入れ、また出しているのか? A:小森・宮原にそれぞれ15馬力と20馬力の用水機が1台ずつ(計2台)、すなわち全部で4台設置されている。普段は小森・宮原とも1台ずつ使用している。用水機を使用の際、特に取り決めはない。 Q:1994年の大旱魃をどのようにして乗り切ったのか? A:いつもは小森・宮原で用水機を1台ずつ使用しているが、大旱魃の時は4台すべて始動させることで、十分に水を補えたので被害を受けなかった。
◎古道について Q:昔の古道はどこを通っていたのか?どのような品物がどこからどうやって入ってきたのか? A:図B‐Aのように、山本から相知町へ行く近道があったが、現在ではその道には草が茂って、通行できないようになっている。又この道は品物が運ばれてきた訳ではなく、通行用のものである。他の古い道は現在でも使用されている。(道路等に変わっているが。)
◎村の範囲 Q:訪ねた村の範囲はどこからどこまでか?どの道、どの水路、どの堀が境界か? A:図B‐Bに図示。 (図アリ・原本は佐賀県立図書館所蔵)
◎村の耕地 Q:昔、この村で特に米がよく取れるところ、逆にあまり取れない田んなかがあったか?場所による差があったか? A:大雨で松浦川が氾濫した時、昔は堤防がなかったため、平地の田んなかは被害を受けることがよくあった。山の田(山間にある田)は被害を受けないため、村のお金持ちが占領して保有米を貯めていた。 昔の土地制度→土地に賃貸価格があった。 ※米の収穫量はどの土地も変わらないが、南方に行くほど水を引き入れやすいため、土地の賃貸価格は上がる。 10年前に土地の賃貸価格で税を払うことが廃止され、水利反別割・地租反別割で払うことになった。 Q:戦前の化学肥料が入る前と入った後ではどう変わったのか? A:収穫……(化学肥料が入る前)4〜5俵/1反 (化学肥料が入った後)9俵/1反 ⇒反収が増加 やっぱり堆肥を使いよった時の米の方が美味しかったがねぇ。(福田福次さん) ※川土手の草を手作業で刈り(昔は子供の仕事だった)、集落でまとめてレンガ造りの建物(現在も残っているが今は個人の物置となっており、堆肥は作られていない。)の中で堆肥を作っていた。 Q:良い田と悪い田ではどれほどの差があったのか? A:あまり差はなかった。 余談:畑田というところは土地が高いところにあったため、水が引けなかった。それで田をやめて畑にした。“畑田”という地名(字名)もそこから由来する。 Q:入会い山はあったのか?またどこにあったのか? A:あった。現在も入会い山として使用されている。
◎祭祀 熊野神社で年3回、春と夏と秋に祭りが行われる。神官が祝詞を上げる。昔は住民が全て参加し、御籠りや子供の相撲大会などいろいろな行事があったのだが、今ではなくなってしまったものが多い。役員が14〜15人で行うのみである。
◎日本農業の展望(福田さんの話) 現在、山本の農家のほとんどは兼業農家だ。私たちが作った米はほんの一部が自宅用で、あとは政府米として買い上げてもらっている。政府米の価格は非常に安い。だから農業で得る利益はほんのわずかなものだ。(高卒の女の子の給料より安かとですもん。)私のところは機械など自分で持っているからまだいいが、そうでない農家は借りなければならないから、赤字なったりすることもある。また国の減反政策もある。去年までは減反に対して手当をもらっていたが、それもなくなった。だいたい国が工業品をどんどん輸出するから農作物を外国から輸入することになり、それで価格が下がってしまうのだ。オレンジの輸入が自由化されたから、この辺のみかんはほとんどダメになってしまった。国はもっと日本の農家の事を考えて欲しい。現在の状況では農業で儲ける事は出来ないのだが、それでもみんな先祖代々受け継いできた大切な土地だから、荒らしちゃいかんと思って作り続けているのだ。
◎その他 山本郵便局の前で、水田整備の記念碑を見つけた。
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