【唐津市山口・風早・中村】 農村・山村を歩いて考える 現地調査レポート 1EC97045 小田 聡子 1EC97050 金光 しほり
『唐津市の山口・風早・中村の「しこ名」調査について』 今回私達の調査では、小字以上の田畑の細かい区切りの「しこ名」は分からなかった。色々な人に尋ねてみたが、現在かなり年長の方々にお聞きしたが、その方にも自分達の親の代でも「しこ名」は分からないと言われた。そもそも細かい田畑の区別を「しこ名」と呼ぶことを知っている方は少数で、その方にも「しこ名」の詳しい中身の名称までは分からないという地域であった。 私達が現地に行って「この畑についている名前はなんでしょうか。」とその家の方に尋ねてみたが、「ないよ。畑と呼んでいる。」と答えられるだけであった。
【風早】について 風早は台地になっていて、大変日当たりの良い地域であった。高台になっているために唐津市内が一望でき、唐津湾まできれいに見渡せた。昔は露地栽培でイチゴが育てられていたが、現在はビニールハウスでの栽培がされている。道端には大根がたくさん捨ててあったため、おそらく大根などの栽培も行われていると思われる。しかし、行った他の2つ地域と異なっているのは、区画整理がされておらず、田畑の形もバラバラで、道も大変細かった。 鍬を持ったおばあさんが歩いていた。山あいでくねくねとした道に、山の斜面では段々に水田があり、畑は個人の畑が大変多くて、それほど大きくないものがほとんどだった。小さな畑一面に同じ作物が植えられているのではなく、細かく区切られていて、複数の作物が同じ畑で育てられていた。私達が行った3つの地域の中で最も昔の生活感の残った地域であったと思う。大きな道路もなく、少々道にも迷って苦労した。
【山口】について 田畑はきちんと区画整理がされていて、道もわかりやすかったと思う。この地域の農業は稲作が中心であった。ここでも「田畑の名前はありますか?あったら教えていただけませんか?」と尋ねたが「ないよ。」と期待はずれの答えが返ってきたり、「地名は地図に載っているだろう。」と言われて、やはり「しこ名」を調べる事はできず、分かったのは小字程度のことだけだった。 ここでは比較的大きな道路があった。山口の東側を県道千々賀・神田線が通っていた。山口地域のほぼ中央を山口川が流れており、山口橋と言う橋もあった。その山口川と県道の間には個人の家屋ではない比較的大きな建物があったが、それが何だったのかはわからない。 山口では進藤幸広さんに「しこ名」についてお尋ねしたが、やはり「しこ名」などの細かい呼び方はよく分からないとのことであった。地域としての田畑というより、普通の家庭の個人の菜園、水田というものが多かった。やはり「しこ名」は今の年配者の方々よりもっと上の世代の方々が使っていて、今ではもう伝わっていないのではないかと推測される。地域が本当に小さいため、やはりここを山口としか呼んでいないようだ。 山口の南側に木造の大変古い小さな公民館あった。覗いて見たが人がいる気配もなく、どなたにもお聞きする事はできず、道で会う人達も年配者というよりも、もっと若い方々が圧倒的に多かったので、その多くは尋ねても声もお聞きできなかったり、返答があるのも稀であるという寂しい調査であった。
【中村】について 中村の田畑では今回行った3つの地域の中では、最も多くの種類の作物が栽培されていたので、「しこ名」がここでは1つか2つ、分かるであろうと期待した。しかしやはり他の2つの地域と同様に細かい田畑の「しこ名」などは分からなかった。学校で先生に頂いた地図を地元の方にお見せしたが、現在様相が異なっているためこの地図で調べることはほぼ不可能だった。新しい違う地図で「しこ名」をお尋ねしたが、新しい地図では田畑や地域がはっきりしないこともあってやはり分からなかった。 ただ、風早のように果物・野菜のビニールハウスが多くあった。いちごが多かったようだ。「ここもかつては露地栽培であったが、区画整理や商品作物など現代の事情もあって、ビニールハウス栽培へ移行した。」と、中年ぐらいの農家のご主人がおっしゃっていた。 中村の西側には山口にも通っていた県道千々賀・神田線が走っており、北部に熊野神社があった。県道沿いは新興住宅地になっていて、各家庭の庭も福岡の一軒家のように小さなもので、花やほんの少しの野菜を育てている程度だった。市の中央部に近いこともあって、そこに住む方々には「しこ名」などその呼び方さえ分かってもらえなかった。その住宅街を見ても「しこ名」など、私たちも想像がつかなかった。 中村の北東部・町田の方には中学校もあり、風早や山口よりもここがいちばん栄えていたように思える。通りを歩く人も年配の方よりも中・高校生くらいの若い方が多かった。
・当日の行動 〜当日に私達が訪ねた経路について〜 まず車で南から北に上って福岡に帰れるようにと、風早の南の方から山口・中村の順で回った。3つの地域を廻ったが、結局「しこ名」はわからなかった。というより、そもそも「しこ名」という言葉さえ知っている方はほとんどおらず、年配の方に聞いても「私たちの世代よりもずっと上の人で、よっぽど詳しい人しか知らないだろう。」と言う答えや「もうそんなの使わないよ。」などと言う答えが、3つの地域で頂けた少ない返答の中でも圧倒的多数を占めていた。風早は大変な田舎であったが、そこでも分からず、山口や中村では風早よりも発展した所だったため、「しこ名」集めに希望が薄くなっていたが、出来る限り廻った。結局最後に中村を廻り、終わった時点で「しこ名」を1つも集められず、大変残念に思いながら福岡に帰ってきた。 私たちが行った地域は、まだ農業が生業となっていたが、少しずつ都市化も進んでいたと思う。山口や中村では綺麗に区画整理がされていた。県道の走っている地域では、住宅街があって田や畑とは少々無縁だったと思える。 ここ唐津では小字までしかそこに住む年配の方もご存知なく、使われているのも小字までで、私たちの探していた「しこ名」は、ずっと上の世代の、かなり昔の方が使っていた、という結果しか得られなかった。 |