【唐津市和多田本村・西山・尖石】

農村・山村を歩いて考える 現地調査レポート

1LA97191 長野 慶助

1LA97233 藤木 重尚

1LA97223 福崎 正浩

 

お話を伺った人:坂本 一馬さん(大正96月生、77歳)

吉田 条夫さん(大正153月生、72歳)

 

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*坂本一馬さん(和多田本村駐在員、連合会長)の話

140年前

坂本一馬さんの先祖が畑を耕していたところ、鍬が石にあたり、耕すのに邪魔だったので石を取り除こうとしたが、一人の力ではビクともしなかったので、村中の人を呼び掘り出したところ、石棺が出てきた。坂本さんはそれを“坂本大神”として祀った。

・明治元年 神寄せの儀式

和多田に点在していた神々を和多田天満宮に集め、お祀りした。坂本さんによると「徳川政権の崩壊により明治新政府が動き出したが、まだ日本は内乱状態であり、それを肌で感じていた和多田の人々が神寄せの儀式として和多田天満宮に神々を集め、村の平穏を願ったのであろう」ということである。

 

坂本さんのお話をお聞きしている際に、ご近所の方から20数年前の和多田の写真を見せて頂いたが、坂本さんによると、この写真はまだバイパスが建設される以前のもので、おそらく用地を買収する段階の昭和50年頃の写真であろうということだ。写真の光景は、今見ることができる大型店が立ち並ぶ光景とは違い、わずか20年余りの間に急速な発展がなされたのだと実感させるものであった。

 

*吉田条夫さん(和多田西山駐在員)の話

・吉田家の起源

水野忠邦公が、天保の改革に失敗して唐津に下って来られた時に、水野忠邦公の剣道指案役の吉田玄秀氏も共に江戸から唐津に下って来た。これが吉田氏の起源らしい。竜源寺にはこれを証明する史料があるらしいが、実際は分からない。

・機関紙「MATSURA NO KUNI

唐津の郷土史(考古学)について調べていらっしゃる富岡行昌先生が執筆されている「MATSURA NO KUNI」という機関紙らしきものがあり、吉田さんはこれらをストックしている。

 

A和多田本村について

・和多田の由来 〜富岡行昌先生の説〜

寺沢志之守(唐津藩主)が干拓をして田畑を開墾したが、米はあまり収穫できず綿が取れた。水田よりも綿田の方が多かったのである。 綿田(ワタダ)→和多田

・馬越(まんこし):昔、川だった場所に近く、馬が川を越えるのが難しいので馬越となった。なぜ“まんこし”と呼ぶかは分からない。

・境越(のりこし):馬越と同様に、川との境だったという意味。なぜ“のりこし”と呼ぶかは分からない。

・新道(しんみち):干拓した際に、工事用の資材を運ぶために整備された道があり、その工事の基地的なものがこの地にあった。

・谷間代(たんましろ)

・瀬久手(せくで):昔、川との境だったことから“瀬”という文字が使われたらしいが、あとは分からない。

・龍森(りゅうもり):昔、森の中に湖があり、その湖の中に龍が住んでいるという伝説があったことからこの名がついた。

・八反田(はったんだ)

・冨州(ふしゅう)

・瀬田原(せたばる):昔、川との境であることから“瀬田原”とついた。

・連光寺について 〜富岡行昌先生の説〜

虹の松原(冨田)一揆()の際の謀議所となった。後に火事で焼失してしまい、現在の地点に移転。

() 上納米が多すぎたために一揆が起きた。

・成和小学校について

 みかん畑のところに小学校を建設。その名残として小学校の屋上に“みかんのモニュメント”がある。

 

B和多田西山について

・和多田西山の由来

 昔、和多田西山には入山(いりやま)という山があった。沖縄南西諸島の西表島(いりおもてじま)の“いり”を取って、入山が西山となり発音も“にしやま”となった。

 吉田さんによると、西山は山でありほとんど田んぼはなく、しこ名はなかったようだ。

 

C和多田尖石について

・佐用姫伝説〜羽衣・浦島と共に日本三大悲説の1つ〜

唐津市和多田の松浦川沿いに佐用姫岩がある。

今から1450年前、新羅出兵のため都から兵を率いて松浦の里に滞在していた大伴狭手彦が、松浦長者の娘・佐用姫と恋に落ちたそうです。やがて大伴狭手彦は新羅に向けて船出します。当時の出兵は航海術の未発達もあり、無事に帰って来ることは少なかったため、佐用姫は悲しみにくれます。佐用姫は毎日鏡山の頂から領布を振り、大伴狭手彦の名残を惜しんでいましたが、ついには船を追って呼子の加部島へと渡り、悲しみのあまり石になったそうです。  (尖石公民館の史料 坂元一馬さん)

・潟(がた):干拓したあとの潟という意味らしい。

・組端(くみはし):現在の松浦川との境、つまり陸地の端という意味でつけたらしい。

・前田(まえだ)

・六反割(ろったんわり)

 

D和多田の水利について

・バイパスができる前

 上の方の田ん中から順に水を流していた。

 渇水の際には水守(みずもり)or水番(みずばん)という人がいて、田ん中の地主の間での調整を図った。

・バイパスができた後

 成和小学校のうえに浄土器ができ、飲料水についてはそれでまかなっている。

 農業用水については、農業を行う人が少なくなってきたので、水は行き渡るようだ。

 

E村の過去と未来について

 昔は農業をやっている人もいたが、バイパスの建設とそれに伴う大型店の進出により、農業をする人が少なくなった。成和小学校は和多田の人の願いではあったが、それにより多くのみかん畑がなくなった。これからの和多田は都市に出て行き、土日は農業をするという人が多くなるであろう。 (坂本一馬さん談)

 

F感想

マニュアルに、調査の目的は「失われつつある通称地名を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。合わせて昔の暮らしについて直に土地のお年寄りからお話を聞き理解を深める」とある。今回和多田での調査はそれを実感させるものであった。昔の和多田について話す吉田条夫さんや坂本一馬さんはとても楽しそうで、僕たちの質問にも一つ一つ丁寧に答えて下さった。できれば唐津に水野忠邦がいたということを知っていれば、もう少しスムーズに話を聞けた気がする。前期の講義で福岡城を見に行った時、帰りのバスの中で友人に「福岡城=黒田長政」ということを教えてもらい、やっと教官が言っていることが分かったのと同じだ。地元の人には常識でも、そうでない人は知らないのである。教官にはそこを注意して欲しい。しかし教官の講義を受講したことで、二回も貴重な体験ができたことを嬉しく思う。和多田に行くまでは、調査時間5時間は長すぎると思っていたが、調査してみると、老人の話を聞きレポートを少しまとめていると、あっという間に5時間が経過した。今回僕たちの調査に協力して頂いた坂本一馬さんと吉田条夫さんに心から感謝したいと思う。(みかんありがとうございました。美味しかったです。)



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