【唐津市千々賀】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

1LT97087 谷本 恵美

1LT97102 中村あゆみ

 

調査日:199776日(日曜日)

話者:小野 亘さん(昭和8年生まれ)、同夫人

松本 ミツオさん(明治44年生まれ 86歳)、

 

 

唐津市千々賀 しこ名一覧

田畑

 小字 大坪のうちに  ゴンモト(江本)、ナガレッコ、クスモト(楠元・楠本)

 小字 島田のうちに  セギャ(瀬貝)、

 小字 敷坪のうちに  セギャ(瀬貝)、エグチ(江口)

 小字 八ノ坪のうちに ヒラタ(平田)

 小字 牟多田のうちに イデンウエ(井手上)、サンダタ(三反田)

 小字 柳のうちに   ツルタ(鶴田)

屋号

 小字 汐井川のうちに タンガシラ(谷頭)、タチガタ

 小字 大坪のうちに  クルマヤ(車屋)※水車のこと

 小字 千々賀のうちに シンクラ(※1軒のみ)、タンヤマ(谷山)、ホンノツジ(本辻)、

アラクダ(荒久田)、オクノソン、ウラグチ(裏口)、

ボウヤゲ(坊屋気)、ヒガシマ(日向島)、マエグチ(前口)

 

(写真アリ・原本は佐賀県立図書館所蔵)

 

午前1030分頃、千々賀のファミリーマート近くでバスから降りた私たちは、お話を伺うことになっていた小野さんのお宅に着くまで約1時間も迷い歩いてしまった。住宅地図を見ながら行ったのだが、誤って千々賀の先の山田までも行ってしまっていたのだ。そのためちょうどお昼時にさしかかる時間帯にお邪魔してしまったわけだが、小野さん夫婦は大変懇切丁寧に、私たちの質問に答えてくださった。

お話を伺ったのは、3年ほど前に定年で会社を退職し、今は農業に専念していらっしゃる小野亘さん(昭和8年生まれ)とその奥様。そして奥様のお父様である松本ミツオさん(明治44年生まれ86才)も、わざわざ私たちのために来てくださった。3人とも千々賀で生まれ育った方々だ。

明治時代、千々賀周辺の集落(和多田・畑島・山田・石志・千々賀・養母田)を合わせて鬼塚村と言ったそうだ。小野さんは、私たちが調査に来るということで、明治時代に作られた千々賀の古地図を借りてきてくださった。写真では分かりづらいが、畳一畳よりも大きく、きれいに彩色までされてある立派な地図である。これは、水路・田圃・宅地等の整備のための計画地図であり、明治41年に作られている。昭和の初め頃にはこの地図の通りに水路も道路も整備されており、明治期に千々賀を離れ北海道に移っていた人が昭和になって千々賀へ戻ると、あまりの変わりようにびっくりした、という話を松本さんがご自身のお父様に聞いたそうだ。何しろこの辺は昔から干ばつに悩まされる事はほとんどと言っていいほどないが、逆に水害がひどかったそうで、すぐに田畑は水浸しになり農作物に被害が出ていたらしい。家も、床上浸水どころか家全体が水の中に沈んでしまい、舟で行き来していたというからすごい話だ。そのような事態を改善するための整備だったのであろう。うねうねと曲りくねっていた徳須恵川の流れも、この整備で1本の大きな流れになった。

また、明治44年には水を通すトンネルもできている。大谷川から引いてきた水が通るトンネルで、地元の人々は大谷川のこと『トンネル川』と言うそうだ。千々賀の田畑の水源は、瀬戸だめ・新ためと言われる大きなため池と、大谷川から引いてくる水で、この3つの水源からくる水が、『西ノ子』と呼ばれる用水引入口で出会う。

『西ノ子』は今でも使われていて、私たちの直にそれを見に連れて行ってもらった。夏の田圃を開いている間、この用水引入口の管理は『水番』という人が担っている。今は水番の人は2人だが、昔は1人で千々賀全体の田んぼの水の調節をしていた。こう書くととても大変な仕事のように思えるが、実際はそれほどでもないらしい。 (図アリ・省略:入力者) 左図のように田圃が連なっていると、四隅にある水路の2つだけを開いておけば自然と水は流れていき、そんなに手間はかからないらしい。したがって、水番は各年千々賀の農家の人が順番に持ち回りでする仕事ではなく、かといって代々水番の家があるわけでもなく、小野さんが言うには「少し手の空いていそうな人」に頼んでやってもらうのだそうだ。

 

地元の人々が「開パ道路」と呼ぶ道がある。正式には国営開発パイロット事業と言って、昭和3040年頃、山を切り崩して農地を造成した。道路もその時作られたもので、唐津市街までつながっている。この開パ道路を私たちも小野さんの車で走ったが、千々賀の小野さん宅から1015分ほど走ると、すぐに唐津市街が見下ろせた。この辺の開発を推進したのは、国会議員の保利茂さんという人で、山本出身なのだそうだ。

 

田圃の肥料についてだが、かなり昔から化学肥料を使っていたそうだ。但し今と違ってチッ素ならチッ素だけの肥料というように単肥だった。それがいろいろな物質を混ぜるようになったのは昭和56年で、松本さんが20歳くらいの頃、農協の機械で混ぜるのを手伝っていた。今は肥料が高性能で、肥料を1ヶ月に1度もやらなくて良いが、昔は元肥、追い肥、補肥など、たくさんやらなければならなかったそうだ。

また、ガスがくる前の燃料については、薪は個人林からとっていたそうで、原則として共有林はなかったようだ。ガスは小野さんの奥様がお嫁に来たとき(昭和33年)にはまだなく、おそらく昭和356年にきただろうと言っていた。

千々賀の祭祀については、昔からある千々賀神社に、今はなくなった神社の神様を合祀してあるそうだ。昔は、唐津くんちほど大きくはないが、千々賀でもおくんちがあっていた。

 

お話を伺った後、小野さん夫婦のご好意で、私たちは実際に田圃や水路、開パの田圃、西ノ子、トンネルなどを実際に見て回らせてもらった。それはのどかで美しい田園風景だった。小野さん夫婦は車を走らせながら、盛んに「この道は昔はこんなんじゃなかった」と言われた。昔は車などもちろん通れる道ではなく、やっとリヤカーが通れるくらいのうさぎ道で、人々はリヤカーに農作物を載せ、唐津の方まで運んでいたのだと言う。道が広くなり農作業の技術が発達するのはいいが、千々賀の将来はどうなるだろう、という不安もあるという。千々賀全体で専業農家の6軒ほどである。普通は何か別の仕事しながら農業し(技術の発達で兼業農家といってもさほど大変ではない)、定年を迎えたら専業農家になる。小野さんもそのひとりだ。しかし、やはり若い人には福岡など他県に出て行く人もいる。田圃を埋め立てて、集合住宅や大型ショッピングセンターを作ろうという事業も、まだ具体的にではないがちらほらあるらしい。

だんだん消えていくかもしれない農村の記録を残そうというのが私たちの狙いだったが、実際に千々賀に行きお話を伺うと、この美しい風景や昔ながらの人々の生活が失われていくのかと思うと、とても寂しく感じられた。

普段は私も田舎より多少都会に住みたいと思ってしまう。それが大方の若い人の考えであり、それが時代の流れとなってしまうのかもしれない。しかし、このような機会に恵まれて千々賀に行くことができたのは、私にとって大変良かったことで、改めてこれからこのような農村はどうなるのだろうか、どうすればよいのかなど、考えさせられた。

 (写真アリ)



戻る