【唐津市田代地区】 歴史と異文化理解A 佐賀現地調査レポート
1LT97039 小野総一、1LT97018 稲田俊一郎
<話者> 岡本タツユキさん 大正12年生まれ
<1日の行動記録> 8:30〜 目的地へ向け、バスに乗り出発。
10:20頃 田代の公民館(唐津市の方)前に到着。 そのまま公民館におられた方にお話を聞いたところ、山口 要さん宅まで案内していただき、古老の方を紹介していただいた。しかし、お話を伺ったところ、ご存じない様子だったので、かわりに区長さんを紹介していただいた。
〜12:30 近辺で高圧線、水路などを調べながら、区長さんの帰りを待つ。
12:30〜1:30 区長さんと、その父親で村一番の古老の方にお話を伺うことができた。
1:30〜 再び町を歩きまわり、地理、町の風景等を観察。暑かったが、心地良い風がふいていた。田舎のにおいに胸のすく感じがした。
2:00〜3:20 村のほとんどの方が公民館に集まり、食事をなさっていた。その輪の中に僕達も一瞬ではあるが加わらせていただき、村の内での強い結びつきを肌で感じ、今の都会を考えると少しさみしさを感じた。と同時に、「お前ら養子にこんや」という言葉に、村の過疎化の深刻さが見え隠れしており、考え込んでしまった。
3:20〜 バスに乗り、六本松へ。
5:40 六本松キャンパスへ到着。 みなさん、おつかれさまでした。
岡本タツユキさん 大正12年生まれ
・村一番の古老の方を紹介していただき、尋ねました。村一番といっても80才であり、はじめ、しこ名を尋ねたところ、上のような小字を説明されたので、もう一度、詳しく小字について、「小字よりも細かい、刈り入れのときなどに使う呼び名のことだ」というようなことを説明したが、「そんなものは使っていない」と言われた。他にも2、3人聞いたが、みな知らないと言っていた。古老を紹介していただいた方が、「小字でさえ、今の若い人は使わない。出ていっていて、たまに帰って来るぐらいなので、(若い人は)そのうち忘れてしまうだろう」と語っていたのが心に残る。
今回、僕達が調査した「田代」というところは、現在は唐津市に属する目付佐原村と轟木村を結ぶ丘陵の凹地に点在する村であり、有浦川の支流の受付川が村の北西を通っている。田代田原には尾崎神社がある。 明治14年(1881)に大良村、同22年(1889)には切木(きりご)村となり、現在の田代へとなる。と、いった場所で、村の古老にお話を伺ったところによると、田代は昭和32年に、何がきっかけということもなく、糸が切れるかのように唐津市と玄海町へとけんか別れをしてしまったそうで、歩き回っていると、唐津市側にも田代公民館が、玄海町側にも同じ名の公民館があり、そのつめ跡を感じた。 しかし、現在では行政区分上では別の所属となっているが、年1回の豊作祈願のお祭りなどでは、田代全体が大権現様の下、仲良く酒を酌み交わすそうだ。 けんか別れをした原因は、水の問題ではないかと思い、そのこともあわせてお尋ねしてみたが、そのようなことは全くなく、現在、干ばつの際にはため池に水がなくなるので、野高山からため池(田代溜)へ水を引いてきて、仲良く協力して干ばつを乗り切っているそうだ。
<お祭りについて> 年間のお祭りについてのまとめは、次のようです。 1月17日 的射ごう 厄除け 春 春祈祷 春彼岸 夏 夏祈祷 植付願成ジ?〔ママ:入力者注〕 秋 秋彼岸 ※昔は酒ではなく、あめ(飴?)湯を飲んでいたらしい。
<考察(村のこれからについて)など> 自動販売機もなかった。すぐ隣の玄海町には原発があるらしいが、なんとかいう変電所に送られた電気の8割は福岡に行くそうだ。福岡といえば自分の住む土地であるのに、言われるまで考えたこともなかった。爆発でもするのなら福岡まで危ないが、放射能漏れなどは、ちょっと前に起きた事件のときなどは不安だっただろう。 田代村は唐津市と玄海町にまたがっている。行政区画を整理するときにケンカ別れしたとも、そうでないとも(実際2つの意見があった)言われている。一説には酪農農家と田畑作で分かれた(これはケンカ別れ否定派)というのもあったが、どちらも牛を飼っているところもあれば、稲作やとうもろこし作をしているところもあった。 田代村を訪問したちょうどその日に、周辺の地域も含めた球技大会が行われていたらしく、公民館にうかがうと、打上げのようなことをやっていた。田んぼに出ていた人もそうだが、大人は四・五(六)十代の人であった。昔のことを詳しく知るほど年をとってはいないが、若くもない。話の通りに、小字・しこ名は消えていってしまうのだろう。最初に手紙を出した方に尋ねると、自分は養子であり、古いことは分からないし、詳しかった老人もほとんど亡くなられたと言っていた。疑いもせず私達を家に上げてくれたり、もてなしてくれたり、親身になって話をしてくれる彼らの人柄には、これからもなんら変わりはないのだろうが、それでも忘れさられていくのは寂しいものである。 |