【唐津市相賀】 農村山村を歩いて考える 現地調査レポート 1ED97037 新名 美紀 1ED97038 西 見奈子
話者: 宮崎和子さん―大正10年11月生まれ 渡辺さん(女性)―昭和13年生まれ 伊藤久巳さん(駐在員)―昭和5年1月生まれ 渡辺孝さん(旧駐在員) 名乗るものでもないとおっしゃったおばあさん―大正9年生まれ ※他にも名前も年齢も教えては下さらなかった女性が3人いらっしゃいます。
一日の行動記録 8時15分、六本松からバスに乗り佐賀県に向かった。二人とも佐賀県に行くのは初めてだった。そして農村に行くのも初めてだった。しかし最初から農村に良いイメージを持っていたわけでは決してなかった。むしろ農村なんて、田舎なんて、という一般に固定されたイメージしかなかった。そのイメージとは何もない、つまらない、殺風景、そんなイメージだった。 そして数時間後、私たちが降ろされた場所は、そのイメージどおり何もない、ただ田んぼと畑が広がるまさしく田舎であった。私たちは市内とは段違いの寒さに凍えながら、まず人を探すことにした。なぜなら、人が見当たらなかったからだ。 大正10年11月3日生まれの宮崎和子さんだった。彼女は神社までの散歩の途中だったが、私たちの挨拶に笑顔で答えてくださった。そして私たちの質問にも終始笑顔で答えてくださった。そして最後の「今おいくつですか。」という質問にはすごく照れながら答えてくださった。 次に、授業でリストアップされていた渡辺さんのお宅に伺った。しかし留守だった。が、玄関は開いていた。都会では考えられないことである。 しばらく歩くと海に出た。海に出るまで数人の村人と出会ったが、いずれも不思議そうな顔をして避けられてしまった。この村では、見知らぬ人が歩いていることがよほど珍しいらしい。私は同じマンションのとなりの部屋に男が住んでいるのか女が住んでいるのかすら知らない。ましてやその人の名前なんて知る由もない。しかしこの村では、村に誰が住んでいて名前は何で家族構成は何人で、という村人一人ひとりのことにものすごく詳しいらしい。庭掃除をしていた渡辺さんも、私たちが質問すると「伊藤久巳さん」(この村には伊藤という名字が多いらしい)を紹介してくださった。そして、渡辺さんは親切にも伊藤さんのお宅までの地図を書いてくださった。何故渡辺さんが伊藤さんを紹介してくださったかというと、伊藤さんはこの村の駐在員をなさっていて、きっとこの周辺の字や土地名、出来事にも詳しいだろうということだった。そこで、私たちは伊藤さんのお宅を目指して海岸沿いの道をひたすら歩いた。海は穏やかで、人通りもなくあたりはとても静かだった。波の音を聞きながらゆっくり歩いていると、こういうのもいいなとふと思った。いやみではなく、こういうゆっくりした時問を感じることができるのは素晴らしいことだなと思った。 しばらく歩くと伊藤さんのお宅に着いた。彼は駐在員をしていらっしゃるというだけあって、風格のある老人だった。彼は、私たちの質問にも熱心にお答えくださった。彼は村で起こった出来事を詳細に記憶されており、いろんな地名にも詳しかった。また、村の将来についても(村の高齢化、後継者不足などの問題について)熱心にお話してくださった。さすが駐在員をなさっているだけあって、村のことをかなり真剣に考えていらっしゃった。きっとこの村のことをとても愛していて、大切に思っていらっしゃるのだろう。 伊藤さんのお宅を出た後、私たちは先ほど留守だった渡辺さんのお宅へもう一度伺ってみた。やはり彼は留守だった。しかし私たちがあきらめて帰ろうとしたとき、彼らはちょうど帰っていらした。彼は見知らぬ私たちが玄関の前にいるのを見てもいやな顔ひとつなさらず、親切に応対してくださった。とても感じのよい方だった。近所の人たちも、私たちが何か調査をしていることを知ると集まって来てくださり、つぎつぎにしこ名を教えてくださった。渡辺さんはその周辺の土地を細かく区切って名前を教えてくださった。たくさんの親切な村人のおかげで、私たちの調査は思ったよりも早く終わることが出来た。 しかし、バスが迎えに来るまで4時間ほど時間があった。私たちは何することもなくしばらくの間ボーっとしていたが、あまりの寒さに公共の交通機関を使って一足先に帰ろうかということになった。しかし、バス停で時刻表を見ると、まだまだ1時間以上はバスが来ない。そこで、ヒッチハイクをしてのんびり帰ろうということになった。村のゆっくりした雰囲気が私たちにそのような考えをもたらしたのかもしれない。ヒッチハイクを始めて数分後、ある子ども連れの家族が私たちを拾って、近くの駅まで送ってくださった。彼らは海を見てきた帰りだという。しばらく話をしているうちに、その家族とすっかり仲良くなった。5歳の男の子も私たちが車を降りてからもしばらく手を振ってくれていた。いつもは人見知りが激しいと言われる私が、見ず知らずの人々とこんなにも打ち解けることができたのは驚きだった。これも、ほんの数時間でもゆっくりした村で親切でのんびりした人々と接することが出来た影響だと思う。 今回の調査では、それぞれの地域にその地域特有の名前であるしこ名が残っていて、それが現在もなお使われているという事実にも驚いたが、そのような学問的な発見だけではなく、農村特有の雰囲気に触れることが出来たという貴重な体験ができてよかったと思う。また、見ず知らずの私たちにも親切に力を貸してくださった相賀の方々に本当に心から感謝したい。
古老から教えていただいたこと 1.「相賀」という地名について 「相賀」という地名は、昔は「逢鹿」(アイガ)といったらしい。由来については伊藤さんが聞いた記憶によると、昔、この地で昔の偉い武士か誰かが鹿に逢ったらしいということである。たしか、現地に行く事前の調査でもそのようなことが本に書いてあったと思う。その「アイガ」が年を経ていくうちに「オウガ」になり、「相賀」となったらしい。
2.しこ名について 《田畑》 相賀西―マックチ(おそらく真口だろうとのこと)、ツジ(辻)、 シンタ(新田)[=モチヤマ(持山)ともいう]、タカオ(高尾)、 イマシンガ(カ)イ(今新開)、 ワタウチ(綿打とおっしゃる方が多数だったが、和田内とおっしゃる方もいらっしゃった) 相賀中通―ヒメゴ(姫子)、サンチョウマ(三丁間) 相賀東―シンデン(神田) 《山》 相賀西−モチヤマ(持山) 相賀東−ヒガシヤマ(東山)、ヤネド(屋根堂)、ウラノウチ(裏内)、 ウワダイラ(上平) ※持山の西の山はナガヘタ(長部田)、持山の北の山はニシヤマ(西山)、ナガヘタの北の山はクロイワ(黒岩)というらしい。
3.村の様子、耕地、農業、水利について この村は海に面しているが、海岸沿いには堤防が立てられている。これは結構最近に出来たらしい。(最近とはいっても戦後しばらく経ってからだとは思うが。)昔は、潮時はこの海岸は通ることが出来なかった、と渡辺さんはおっしゃっていた。現在、水産種苗センターがあるあたりは、昔は海、つまり埋め立て地なのだそうだ。伊藤さんのお話によれば、東山の南の部分、住吉神社の集落寄りのあたりを削って埋め立てたということである。 村の水田は、昔は湿田であったが今は乾田になっているという。20年ほど前から早期栽培が盛んになったらしい。また、肥料は、戦前は人糞を使っていたが、現在は化学肥料だという。 この村は海に面していることもあって、昔は「半農半漁」だったそうだ。近くの唐津炭田の影響で、蒸気船で石炭の積み出しをしていたらしい。しかし、それも石油の台頭によって30年ほど前から衰退してしまったそうだ。昔は、その日暮らしだったけど、今はだいぶ豊かになった、と渡辺さんはおっしゃっていた。 また、昔は山の上のため池から水を引いていたそうだ。あとは地下水をポンプで汲み上げたり、雨水を溜めたりもしていたそうだ。しかし今は水道が普及しているため水にはそんなに困らないらしい。 水は昔からわりかしあったらしいのだが、凶作が起こった時はというと、雨待ちをしていたらしい。自然の力にはなすすべが無かったらしい。また、芋を植えたりもしたそうだ。 この村から南の鳩川に行くのにも、北側の湊町に行くのにも「国道204号」を使うそうだ。唐津に出るにもなくてはならない道だそうだ。この道は(1時間に1本ほどしかないが)バスも通っている。学校に行くにもこの道を使っているようだ。
4.村のこれからについて 現在、高齢化社会が国の深刻な問題になっているが、この村も決して例外ではなかった。この村では64〜65人が農業に携わっているそうだが、農業者の高齢化がこの村でも問題になっているそうだ。また、高齢化に関連して、どこも後継者不足に頭を悩ませているそうだ。これはこの村だけの問題ではなく、むしろ日本国全体の問題である、と伊藤さんはおっしゃっていた。(もちろん、実際は佐賀弁でおっしゃったのであるが。) |