【唐津市重河内】

 

1LT97096 戸川貴行、1LT97088 田村 隆

 

 

<話者>

 野添光雄さん(昭和12年生)

 

1日の行動記録>

 1030 重河内村で下車。手紙でアポイントをとっていた野添光雄さんのお宅にうかがう。水田、村についての全般的なことを教えていただく。

 1130 しこ名(野添さんは“あだ名”と言われた)がついている田へ案内すると言われたのでついて行く。実際、田を見ながら「あのタンナカが…」と説明してくれたので、地図〔添付地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕には正確に落とせた。水利についても、見て回りながらいろいろ教えてもらった。ただ、かなりの距離を歩いたので、時間的に苦しくなった。

 1230 運動会か何かの応援があるということで、野添さんは学校へ行かれた。

     だが、その帰りに近くを歩いていた僕達とばったり会い、「お茶でも飲んで行け」ということになって、お茶を飲みながら話の続きをする。

 1330 バスを待つ場所のすぐ近くに、しこ名“オミヤ”の由来である三嶋神社があったので行ってみる。夏祈祷の際に用いるという、わらと竹で作った器具が実際に備えつけてあった。つい1週間前にその儀式があったばかりだということであった。

 15:? バスに乗る

 1740 六本松

 

 

<重河内村のしこ名> 聞き取りした人:野添光雄さん(昭和12年生)

トンモト

一望できる78枚の田があるところを総称してトンモトと呼ぶそうだ。

ヤナギダノウエ

“ヤナギダ”は屋号(後述)。その上にある田だから“ヤナギダノウエ”。

オミヤ

お宮(三嶋神社)の近くにある田、というのが由来だという。

ウエ

野添光雄さん宅の屋号。そこにある田もウエと呼ぶそうだ。

シタ

野添強さん宅の屋号。そこにある田もシタと呼ぶそうだ。

モチダ

“モチダ”は小字名なのだが、なぜか図中の田1枚のみをモチダと呼ぶのだそうだ。

ナガオ

大島さん宅の屋号。そこにある田もナガオと呼ぶそうだ。

ヒラバイガワ

村の人々が子どものオムツを洗うのに使った共同の川(川というよりは水路に近い)。

キゴロンシタ

聞いたことがあるという程度のため、位置は不明ということだった。“モチダ”の近くの田らしい。

(他に教えてもらった“ソノダ”“マツオ”といった名は、全て小字と同一の名であった)

 

 

<重河内村の水利>

ため池“タメ”

村の中に1つしかないという(地図中)。昔から非常時にしか用いられなかった。3年前の干ばつでも使用。

“自然水”

(としか呼ばないとのことだった)

“ヒラバイガワ”“ソノダガワ”と村仲間では呼び合うそうだ。

山から下り、水路が左右に分かれる際、左右のパイプの太さが異なっている。その割合は73にしてあるという。田の面積に応じて、使用できる水の量が異なっていた。干ばつ(3年前)の際はこの水がなかったため、ため池の水をポンプで各家の田に導いたり、“上場(うわば)開発”(圃場整備のようなもの)に用いる水を使ったりしてしのいだという。40年前であれば、とてもそんなことはできなかったということだった。その頃にはたった1つのため池さえ、まだなかったという。

“?”

(ダムの水)

水源:松浦川

1994年の干ばつを受けて、今年3月から使用され始めたパイプを用いた水路。パイプは地中に埋められたため、この付近の道路の山側の半分だけ、新しく舗装がなされている。その距離は、野添さん宅周辺から、公民館の南約200mの地点までであるそうだ。この水のため、今後は水不足に悩むことはなさそうだということだった。また、平時においても、常に水が供給され、ねばりのある状態に保てるため、今年から収穫量も増大するだろうとのことだった。この水を用い、ハウスではピーマンを作っていた。

 

 

<祭祀について>

 三嶋神社の近くの水田では神主を呼んで、水田の中に竹の棒を立てて祈祷し、害虫から稲を守ることから、この水田一帯「お宮」と言うようになったそうだ。他にも、三嶋神社では「おくんち」や夏祈祷(わらと竹を用いて半円状の空間を作り、その中をくぐって(こんな感じ)〔絵図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕、夏に病気をしないように願う祭祀)が行われるそうだ。また、現在では、かつて同じ村であった熊ノ峰が全く独立した村となっているため、熊ノ峰ではこの三嶋神社とは異なる神社を祭っているという。

 

 

<屋号について>

 前述の「ヤナギダノウエ」の「ヤナギダ」というのは、大島強さん宅の屋号である。また、聞き取りした人である野添光雄さん宅と、彼の家の坂を下った所にある野添強さん宅を区別するために、野添光雄さん宅を「上」と呼び、野添強さん宅を「下」と呼んでいた。

 

 

<村の耕地について>

 裏作・二期作・二毛作はしないと言っていた。しかし、国の減反政策で、牛のエサを作っていると言っていた。水田は全て乾田と言っていた。良い田と悪い田では、良い田が1年当たり450kg8俵足らず、悪い田では1年当たり430kg7俵+α収穫できるとのことだった。

 

 

<村のこれから>

 最近の農家の息子さん達は農大に行き、建設業に就くかたわら、農業を営む兼業農家がこの村では一般的らしく、後継者不足を心配しているというふうではなかった。また、ここ23年の間に、米を収穫した後、脱穀せずにそのままトラックに積んで農協のセンターに運んで行くと言っていた。

 

 

<感想>

 朝の8時に起床したので、とても焦った。急いで行ったので学校にはギリギリ間に合った。バスの中ではみんなしゃべったり、寝たり、音楽を聞いたりしていた。ひとこと言わせてもらえば、バスの中にカラオケが欲しかった。途中に休憩で止まった店では、ただで飲める冷水やお茶をたくさん飲んだ。

 今回の実地調査で、村では、元々そこで使われていた名前と圃場整備事業後に名付けられた水田の番号とが、どのように使い分けられているかが分かった。

 まず、元々そこで使われていた名前は、村の人がその水田のことを指して言うのに用いられる。また、同じ名前の水田でも、村の人が地図上の水田の一部だけを指し示して、特にそう呼ぶものもあった。

 次に、圃場整備事業後に名付けられた水田だが、これはその年にどれだけ米がとれたかを記録する作業を円滑に行うのと、もし日照りや水害で凶作があって、通常の8割しか米がとれなかった場合、農協からあとの2割の収穫高に相当する補助金を出してもらうのと、両方の目的で用いられているらしい。

 他に、水田に元々付けられていた名前を、番号に変えられて悔しくないのかと野添さんに聞くと、「うん、便利になったからいいんじゃないかね」と笑顔で答えてくれた。そして、公民館の前を通ると、「これ、市役所から持って来た中古品」と笑って教えてくれた。結構ひょうきんな人だった。

 調査に行った重河内村はコンビニもスーパーもなかった。僕はそんな場所に来たのは初めてだったので、はじめはかなりとまどった。しかし、山口県岩国市出身であるパートナーの田村君の実家がこういう雰囲気の所であるらしく、彼は「なつかしい」と言っていた。なお、字体を見れば理解いただけると思うが、このレポートの前半は田村君が書き、後半は僕(戸川)が書いたものである。



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