【唐津市鬼塚】

歴史と異文化理解A 佐賀県唐津市現地調査レポート〜鬼塚〜 1997.7.6

                       1LT97065 清水美穂子

                       1LT97074 高山さやか

 

・ 田辺直巳さん(昭和5年生まれ)と中嶋敬市さん(昭和7年生まれ)の二人に聞き取りをしたが、矛盾する点がいくつかあった。

  明治時代には、鬼塚・養母田・和多田・山本・畑島・千々賀・山田の七か村を統合した広い範囲を「鬼塚村」と呼んでいたため、「鬼塚」が指す範囲の解釈は人によって食い違いがあるようである。田辺さんは広い範囲の鬼塚(地図2の範囲)、中嶋さんは狭い範囲の鬼塚(地図1の範囲)について話してくださったようだ。(地図は佐賀県立図書館所蔵)耕地と水利について二人の話に矛盾があったのはそのためだと思われる。

 

●しこ名について

 他の村にはあるようだが、(狭い範囲の)鬼塚にはそういったものは特にない、という話だった。小字がそのまましこ名のように使われているようだ。中嶋さんは、しこ名がない特別な理由は思い当たらないとおっしゃっていた。集団移転や、村の統合または分裂などの関係で、名前が定着しにくかったのではないだろうか。

 ※集団移転

  松浦川の河川改修や国道202号線の拡巾などのために、鬼塚駅前の住宅が養母田の 一部に集団移転した。

 

●地名の由来

 鬼塚:今から1100年ほど前、岸岳城に孤角という盗賊が住んでいて、‘鬼’と恐れられていた。当時の英雄源久がこれを退治し、首をはねて埋めた場所が鬼塚と呼ばれるようになった。

 ()()():「やぶ」は「藪」のこと。最初は「()()()」の字をあてる予定だったが、神崎に()()という地名があって紛らわしいので、「養母田」とした。昔は、今の鬼塚も含まれており、今の養母田を上養母田、鬼塚を下養母田と呼んでいた。

 新開:鬼塚駅前から集団移転した場所に団地などができ、「新しく開いた地」という意味でつけられた。この集団移転は、鬼塚の人が養母田に入りこんだ形になったので、地名の面で意見が衝突し、結局今は新開と鬼塚とを合わせて「養母田鬼塚」と呼ぶようになっている。

 ()()():「ちち」はぬかるみの意、「か」は「家」。この辺りは湿地帯で、ぬかるみに家が建っているという意味で「ちちか」と呼ばれた。

 ※−の坪・二の坪・三の坪・〜など、条里制にちなんだ地名も残っている。また、条里の坪割りで余った地を「余り」と呼んだ名残が今の「甘木」である。

 

村の水利について

 

田辺さん

中嶋さん

用水源

ため池、松浦川

ため池、松浦川

単独or共有

共有

単独

共有している他区域

山本、石志、畑島、千々賀養母田、山田

 

昔の水争いの有無

有り

このあたりの水田は段々になっており、上の方にある村が水をせき止めたりすると、下方の村と争いが起きたりした。普段は調停をしているが、水不足になったときには、山田が上方にあるすが牟田と争いを起こした。

無し

用水は、単独で使っていたし近くに松浦川があるために、特になかった。

昔の配水の慣行・

約束事

水をせき止めて独り占めしないという約束はあるが、夜中に水をせき止めて自分の田に入れようとする者がいるので交代で寝ずの番をした。

水利組合がなかったので、水番という制度があり、順番で水の管理を行った。

3年前の大旱魃の時の水のまかない方。また、これが30年前だったらどうだったか。

松浦川から水をまかなっていた。30年前であれば、松浦川はあるけれども、やはり水争いが起きただろう。

松浦川から水をまかなっていた。30年前であれば、井戸を掘って地下水を得ていた。川があるので、水不足の心配はそれほどなく、むしろ塩害を気にした。

 

村の耕地について

 

田辺さん

中嶋さん

焼き畑、キイノ

この辺りではやっていない

この辺りではやっていない

田の種類

ほとんど湿田

ほとんど乾田(裏作は麦)

米の収穫で、場所による差はあったのか。

あった。新開の辺りはぬかるみだったので、収穫が良くなかった。その他、冷たい水が流れ込むところなども良くなかった。

あまりなかった。川が近くにあるため収穫の差はそんなになかった。新開の辺りは多少土地が悪いので、少し収穫が悪かったが、土地の悪いところから住宅化しているため現在は良田と悪田の区別はない

戦前、米は反当何俵とれたか。

8俵くらい。悪いところで4俵。平均すると6俵くらいになる。

乾田も湿田も4〜5俵くらい

化学肥料が入ったあとではどの様に変わったのか。戦前の肥料は何か。

収穫が良くなった。

収穫が良くなった。10俵くらいはあがるようになった。戦前の肥料は、配給の肥料を使っていた。その他は、草を刈って肥料にしていた。

入り会い山はあったのか。

あった。昔はどの家も牛馬を飼っていたので、その餌のために、草の生えているところを皆で分けた。

左に同じ。「野山」という。

30年代後半から牛馬を飼う家が減ってきて、現在では入り会い山は分けられて個人所有になっている。

 

<補足〉

  村の水利について

  ・山のわき水を利用していたのだが、水が冷たく稲の生育が悪くなるので、ため池を掘った。

  ・松浦川は昔は今のように真っ直ぐではなく、かなり曲がりくねっていた。

   鬼塚は松浦川と波多川の合流点で、波多川は河川の巾が狭く、松浦川寄りの潮流が逆流するので、豪雨時には氾濫した。波多川の改良のために松浦沿岸も改良工事をすることになった。

  ・地図Aに記してある水路は、水害の時などに大量の水が下方に流れるのを防ぐためにつくられたものである。

 

村の耕地について

・田辺さんの話では、ほとんどが湿田だったということだった。乾田は道楽程度の気持ちでつくった。

・塩害を防ぐために、しお止めを行った。

・山では、みかんをつくっていたが。現在はある程度は残っている。

・入り会い山の草は、燃料としては使われていなかった。ガス、石油の普及ははやかった。

 

村の道について

 国道‥・かなり昔から通っていたので、この道を使って学校に通っていた。現在のように広くはなく、幅7メートルほどであった。(地図1の国道にそっている水色の線)

 古道‥・現在はほとんどない。馬車がやっと通れるほどの小道があり、そこを通って収穫した米を運んだ。尾根に沿って、入り会い山へ行く道がたくさんあった。特に名前は付いていなかった。(地図1の尾根にそっている水色の線)

昔は村の人が集まって道を掃除する往還掃除というものがあった。

 

●村の範囲

 広い範囲の鬼塚……地図2の水色の線

 狭い範囲の鬼塚……地図1の赤線

 

●屋号について

 鬼塚は昔から宿場町で、集団移転以前の鬼塚駅前には肥前屋・タ日屋・豊後屋などの屋号をもつ旅籠があった。また、酒の製造なども盛んで、酒屋・麹屋・油屋などもあった。

しかし、これらの屋号は今はもう使われていない。

 

●祭祀

 現在やっている祭りは、春と秋のお宮の祭典のみである。内容も、宮司を呼んで祝詞をあげてもらう程度のもの。祭っているのは天神(菅原道真)や権現様など。

 

●村の姿の変化・今後の日本農業への展望(中嶋さんの話)

 都市化が進み、田んぼがどんどんなくなっている。これからも農村としての鬼塚は失われていくだろう。みかんの栽培が戦後から行なわれているが、これは今もある程度は残っている。

 また、外から入ってきた人が昔からいる人よりも多くなり、人と人との馴染みが薄れてきた。昔は毎年正月に個別に家々を廻る行事があったのだが、今は公民館での集まりがあるだけである。

 日本農業に関しては、都市の人々の理解が最重要課題だ。都市では約73兆円の食糧費が消費されるのに、ほとんどが中間業者に渡ってしまい、農家側に入ってくるのは約17兆円しかないという。だから、いくら物価が高いといっても農家は全然儲かっていないのだ。その辺りをなんとかする政策がほしい。

 農家が減っているのは、やはり後継者がいないことが最大の理由だろう。農業をやっていると、家族への負担が大きいし、嫁いでくる人もなかなかいない。

 諌早湾問題については、今はこれ以上農地を増やして意味があるのか、という気もするが、長い目で見ると将来のためにはつくっておいた方がいいのかもしれない。

 

 

一日の行動記録

8:15 集合

8:40 出発

10:05 鬼塚到着

田辺さんに連絡を取る。

11:00 鬼塚公民館で、田辺さんに話を聞く。

12:00 昼食

13:00 中嶋さんのお宅で、話を聞く。

13:40 話を聞き終わる。

近くの水田を見てまわる。

16:00 鬼塚出発

17:00 九大到着



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