【唐津市梨川内地区】
1. 調査者 1LT97014 礒部洋平、1LT97044 葛西 陽
2. 聞き取りした方 園田藤生さん(S20年代生まれ)とその御両親 近所の物知りの堀田源治さん(S9生まれ)
3. 1日の行動記録 8:30 六本松出発 10:55 大良農協前でバス下車 11:20 園田藤生さん宅訪問 12:00頃 堀田源治さん、いらっしゃる 13:00頃 園田さん宅を出発 橋の名前を調べる 13:30頃 神社(大山祇神社)にて昼食 14:20 大良農協前にてバス待ち 15:18 バス乗車 17:35 六本松到着
4. 調査結果 (1)しこ名 この地区は圃場整備が2、3年前に行われた。タンナカの名前については、一面ずつ名称がつけられてはいなくて、地域別につけられていた。そのため、一部地域では小字名と一致する所があった。現在では昔の名称で呼ぶことが少なくなっていて、「○○さんのタンナカ」などと呼ばれている。そのため、昔の名称が忘れられつつあり、古老の方は思い出すのが大変そうな様子だった。 調べたしこ名は以下の表の通りである。
上記のうち、@〜Gはその名前のいわれが分かっている。 @ウシロダ:山の陰だから「後ろの田」 Aコダ:面積が小さいから? Bカミヤマンサコ:神社の上の山だから Cカジドンヤシキ:もと鍛冶屋の屋敷があった Dカンダ:神様にささげる米をつくる田(圃場整備後、消滅。神田or上田) Eカマンクチ:小十窯の入口だから Fゲバドンダ:「下馬殿田」 Gコロビシ:石が多い所 ※私の考察ではあるが、「〜ンサコ」が多いのは、迫の漢字の意味する「山のはざま」にあたる部分が、この梨川内地区に多いからだと思う。
(2)屋号・集落名 梨川内地区には「堀田」「園田」姓が多い。それらを区別するのは、下の名前を呼ぶことで行っている。一部、特別な屋号があった。
また集落ごとに名称がつけられている(春原口、佐志原口、佐志山、下山〈下毛山〉、村口)。場所は地図A〔添付地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕を参照していただきたい。
(3)水利 水田は山と山の間を流れる川(新川)付近にあり、水はそこからとっているそうだ。その水に配分は特になく、「上から順にとる」そうで、他の地区との争いも特にないそうだ。3年前の渇水時は、「待った」ということである。 圃場整備と同時に橋もかけかえられた(昔は石橋だった)。しかし、名称は以前と同じものを採用した(大川橋、新川橋、カリシ橋、地図A参照)。 あと、上流に行くと、川が二手に分かれる所があり、そこを「井手口」と呼んだ。
(4)村の範囲・村の生活に必要な土地 村の範囲はあまりはっきりしていない(北側では「大良地区と共用している」という所がある)。村の共有の山林は特になかったそうだ。理由は「それぞれが自分の山をもっている」からである。
(5)祭祀・伝承 ○ 現在、下毛山辺りに大山祇神社があるが、これはもともと川添いの神田のあたりにあった(しかし、水害の被害を受け、現在地に移された)。 毎年10月15日になると、そこで相撲大会が行われる。それは、この神社には女の神様がまつられていて、その神様が好色で不細工(?)なため、男の裸を見て喜ぶからだそうだ。神社におそなえする米は神田でつくられていた(神田は女人禁制であり、三角形の土地、圃場整備で消滅)。相撲大会では男たちが手に塩をつけて「力めし」と呼ばれるにぎりめしをつくった(女がにぎるのは許されなかった)。それを食べるのはもちろん男だった。しかし、妊婦だけは例外で、力めしを食べるのを許された(とてもおいしかったらしい)。 昔は、正月に神田でとれたわらをつかって松明を燃やし、儀式を行った。ただし、現在は松明でなく、電気である。
○ 河内山のあたりには、昔、たいへん大きな松があった(現在は、松くい虫で枯れてしまった)。その木は、なんと、玄海町や、ここ福岡・箱崎からも見えたという。戦争時代は、船から見えるこの松の姿を見て、唐津以外の人々でさえも故郷をしのんだという。
○ ゲバドンダは、岸武氏という落武者が、河内山のあたりを越えて逃げてきたところ、転んでしまったので、ゲバドンダ(下馬殿田)という名になった。
○ カマンクチは小十窯の入口にあたるというので、カマンクチ(窯ん口)となった。このあたりは、神功皇后が連れ帰った大良官者(太郎官者)、小次郎官者(小十郎官者)、藤平官者が使っていた登り窯があったということである。大良・小十などの地名は、それからとったものであろう。3つの窯のうち、小十窯だけは発見された。ここから唐津焼が始まったと言われる。 このあたりには、焼き物に適当な土がないので、玄海町の方から土を運んだのだろうといわれていたが、最近になって、1.5mほどの粘土の層が発見されていたという。
(6)村のこれから 唐津市梨川内地区は山間地に位置するが、道路が整備されているために、唐津市中心部に車で15分ぐらいで着ける(村の方は鏡山地区よりも便利だと言っていた)。また、西九州自動車道のインターチェンジが、近い将来、北波多江に出来る予定で、利便性が増す。そのため、この村に過疎の影響はあまりないといえる。しかし、人口は増減がほとんどなく(唐津市全体でなく)、ここ20年推移している。これは、唐津市に農業以外の産業はあまり発達せず、ベットタウン化しているためであり、人口増には工業化が必要であるそうだ。もし、それが実現すれば、梨川内地区の人口は増えるだろう。 現在問題なのは、唐津市中心に近いがために、買い物は市中心ですます人が多い。そのため、地元の商品は、品薄・高価格もあってか、売り上げがのび悩んでいるという。 |