【唐津市中原】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97123 姫野 景子

1LT97120 花田 美江

話者:中江 明治郎さん(昭和6年生)

 

*一日の行動記録*

1030  中原のバス停に到着。さまよい歩く。

1120  中江明治郎さんのお宅に到着。

130  お話を聞き終わる。

200  昼食。

230  古老を求めてさまよい歩く

345  バスに再び乗る。

 

 

私たちが中原でバスを降りたのは10時半ごろでした。まず理事長の中江さんに教えていただいた通り、唐津競艇場を目指して歩いて行きましたが、そこで菖蒲園を聞けと言われていたので、その場所を尋ねたところ、全く正反対でした。その後2人の方に道を尋ね、結局中江さんのお宅に着いたのは、1120分ごろになってしまいました。

最初にしこ名について尋ねたのですが、どうやら字のことと勘違いしていたようで、しこ名を聞き出すのには苦労しました。やっとのことでわかっていただいたものの、まだ60代半ばの方だったのであまり多くはご存じないようでしたが、いくつかは教えていただくことができました。

まず県道の東側の字、高土井、笠原のあたりは、フケタまたはフケグチと言われていたそうです。そこは山のふもとということで、水が溜まり馬も入っていけないほどの湿田だったそうで、全て作業は人力で行われ、収穫高も低かったため、その名がついたそうです。

次に松浦川沿いでは字、大畑のうちにカワバタ(河畑)、セッキリ(関切)があり、昔はよく松浦川の堤防がよく切れた場所であったためこの名がついたらしく、また川の砂が流れ込み田を作れる状態ではなく、畑しか作ることができなかったため、河畑と言う名がついたそうです。

そして字、沖津留のうちにキリグチ(切口)、カワイレ(川入)があり、キリグチはセッキリと同じような由来で、カワイレは松浦川の堤防が切れたとき、川の水が流れこんでため池のようになり、そこで馬を洗うようになったため付けられたそうです。

久里の近くの字、江頭のうちにマゼマチ(混待)があり、肥料にするための草などをこの場所にためていたため、この名がついたそうです。また江頭には井手口があったそうですが、そのしこ名を聞いたところ、昔そこに一本の橋があったために、イッポンバシ(一本橋)と言う名が付けられたそうです。

松浦川から少し離れたところでは字、曲りのうちにミズクミ(水汲)があり、文字通り昔この辺りで水を汲んでいたそうです。

また最初の圃場整備後につけられたしこ名だそうですが字、江頭のうちにウエンシンデン(上新田)、字、沖津留のうちにシタンシンデン(下新田)があり、ここは圃場整備で新しく出来た田であるため新田と呼ばれたそうです。

中江さんが覚えていらっしゃったのはこれぐらいでしたが、昔は田の11枚にこのようなしこ名が付けられていたそうです。

ほりがあるかどうか聞いていましたが、中原にはなりそうです。

水路についてお聞きしましたが、私たちが持っていた現在の地図からは分かりにくく、また詳しくも覚えていらっしゃらないようでした。しかし水をめぐる争いについては、いろいろなお話をしてくださいました。

中原は松浦川の下流域であるため、川の水には海からの塩が上ってくるため、直接水を引くことができなかったそうです。そのため、堤があり水利の強かった久里などの他所の集落から水を分けてもらわなければならず、その集落の人々に飲ませ食わせして、一年に米何俵かと引き換えということで、やっと水を分けてもらったそうなのです。それでも余り水程度しかもらえないこともあったそうで、久里からの用水の取り入れ口である井出口付近では水争いが絶えなかったそうです。

松浦川の上流の方から取り入れた水は、田の高低差を利用して一週間ほどかけて集落内の田に行き渡らせていたそうです。さらに集落内では何日から何日までは〇〇さんの田に水を入れるというような細かい取り決めがあったそうですが、それでも皆、すこしでも多くの水を自分の田に取り入れようとして、夜中の3時ごろに密かに自分の田に水を入れたりすることもしばしばあったらしく、そういうことが原因で集落においても熾烈な水争いが絶えなかったそうです。

しかし、昭和13年に幅1.3m、11000m勾配、全長約6,600mの双水用水路が完成してからは、他の集落との水争はほとんどなくなり、 1994年の大旱魃の時も特に被害は受けなかったとのことです。従って、もし30年前に大旱魃が起こったとしても、大丈夫だったであろうと中江さんはおっしゃっていました。

現在集落内では番水制度を取り入れており、2名の水番さんが1日おきか半日おきといった時間給水を管理しているそうです。昔は一週間ほどかけていた給水も現在では朝から23時間でできるようになったとのことです。

犠牲田は特別に作る事はなかったようですが、作業のしにくい、できの悪い田では皆がそれぞれ自分の田の仕事がひと通り終わった後で、共同で農作業をしていたそうです。同じ集落でも場所によって米の出来具合にかなりの差があったようで、山のふもとの田は水が溜まりやすく湿田となり、松浦川沿いは湿田では無いけれど、しばしば堤防が切れたことにより、川の砂が田に入り込んでしまい、あまり米は取れなかったそうです。それらの悪田に挟まれた中央部に広がる黒ボク地帯では、昔からよく米が取れたということです。

また田にはそれぞれ1等から7等までの等級が付けられ、それに応じて継方(つきかた)という用水路の補修などに使われる運営費を収集したそうです。ちなみに1等の田では1枚当たり6俵ほどの米が取れたそうですが、7等の田では1枚あたり2俵ほどの米しか取れなかったそうです。

肥料として昔よく使われていたのは、川沿いで刈った草を腐らせて作るカシキというものや、草と牛の糞である下肥を混ぜ合わせ発酵させたものや、人糞尿だそうです。またカシやヨシを麦の合間に埋め込んで肥料とすることもあったそうです。しかし、アシが最もよく使われたのは排水路で、下の図のように柳や竹とともに埋められていたそうです。

(図アリ・省略:入力者)

古道についてもお聞きしましたが、中江さんが農業を始められた頃には既に圃場整備がされていたため、戦前の古道については曲がりくねった道があちこちに巡らされていた、ということぐらいしか覚えていらっしゃいませんでした。この道をトロッコや藁で編んだモッコと呼ばれるもので泥を運んだりしていたそうです。昔はこのようにして圃場整備も行っていたため、1年から4年もかかったとの事でした。

この集落にもやはり同じ名字の方がたくさんいたそうですが、特別に屋号をつけてはおらず、ただ本家と分家との区別のために、本家だけは庄屋のんぼりと呼ばれていたそうです。ただ、これは中江家の話であって、他の家のことはよくわかりませんでした。

お祭りに関しては、現在でも夏祈祷や雷御守といったものが催されているそうですが、昔はその他にも水祈祷や彼岸御守など様々な祭りや節句が一年中絶え間なく催されていたそうです。またこのような祭りや節句の日には仕事をしないという決まりがあったそうです。彼岸御守の他にも○○御守と呼ばれる節句がたくさんあったそうですが、これは松浦川の堤防を作るにあたって人柱となられた人々の命日にあたるそうで、そういった人々の供養のために行ったそうです。雷御守はこれとは少し異なり、古賀鶴には昔からよく落雷によりたくさんの人々が亡くなっていたため、その人々の供養と雷による被害が出ないように願うためのものだそうです。昔の人々は雷がよく落ちるのは、昔この地域を治めていた寺沢志魔上の悪政のためであるとか、川沿いにあった松原の処刑場で処刑された人々のたたりだとか考えていたそうです。

その他にも伝染病が流行したりすると全て何かのたたりだと考えて、その度に神主さんを呼んで祈祷してもらったそうです。

最後に村の将来についてお聞きしたところ、人口増加に伴い食糧不足が予測される中、農業の必要性は自明のことであるが、後継者が減り続けているため、農業の生き残る術としては少人数による大規模経営しかないだろうとおっしゃっていましたが、圃場整備や機械化のおかげで随分農業も楽になったともおっしゃっていました。

さらに、下手にサラリーマンを捕まえるより、これから都市化が進みそうな土地を持った農家の男を捕まえる方が、結婚するなら絶対得だと私達にアドバイスをしてくれました。 2時間もの間、嫌な顔ひとつせずにお話をしてくださるとても親切な方でした。

中江さんのお宅を出た後、古老を探して歩きまわりましたが、昔の事をよく知る方には会うことができませんでした。

中原の範囲と双水用水路については、私たちの地図ではわかりにくいとの事だったので、中江さんが地図を利用してくださいました。



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