【唐津市菜畑・二タ子】 農村・山村を歩いて考える 現地調査レポート 1LA97210 原武 浩一 1LA97189 永江 孝幸 1LA97195 西村 和海
話者:村山 蓮吾さん (71才) 吉田さん夫婦 (60〜70才程) 牧山 伊三郎さん(79才) 柳田 勇さん (70才くらい) 川添 俊昭さん (68才、二タ子1丁目駐在員)
(注1)巡見道 江戸時代に、藩の官吏が田畑の見回りをしたり租税を取り立てたり、百姓一揆などを事前に防ぐために巡回していた道が語源。道のことであるが、現地の人々にとっては田畑を含めた一帯をそう呼んでいたようだ。 (注2)下神田 南菜畑一帯。由来は不明。現在では山の中腹にある「下神田溜」として名前が残っている。本来は麓の田畑一帯を呼んでいた。
○調査のいきさつ 【菜畑】 事前に用意していた地図を見ても、あまり田畑がなく住宅街でかなり都会のようだったので、あまり期待できないと思っていた。実際はその地図よりもかなり繁栄していた。地図はかなり昔のものであった。現在では市道和多田二タ子線が開通していて、その道路を中心に山手の方にも新興住宅地が広がっていた。田畑は住宅の間に少し残っている程度だった。 バスから降りて30分ほどあたりを歩き回って(途方に暮れて)何軒かに話を聞くが、まず若い人しか出てこない。散歩をしていた老人に話を聞いても全く知らないと言うし、実際に農家は最近では珍しいほどだと言う。 小さな畑で(幸運にも)作業していた村山蓮吾さん(71才)に話を聞く。かなり言葉が訛っていて聞き取りにくかったが、昔はこの辺でも田畑があったことが分かった。あざ名についてはどうもあったらしいが、残念ながら記憶に残っていなかった。 近くの家で吉田さん夫婦(60〜70才程)に、かなり親切に話をして頂いた。(巡見道について、八反間など) 次に吉田さんの紹介で、昔、先生をされていた牧山伊三郎さん(79才)宅へ行った。牧山さんからかなり参考になる話が聞くことができた。 次に菜畑の区長である柳田勇さん(70才くらい)を紹介してもらって話を聞いた。 【二タ子】 その後昼食をとって二タ子の方へ向かったが、菜畑以上に田畑が少なく、ほとんどが住宅地へと変化していた。しばらく歩き回って農家らしき家を見つけ訪れた。その家の人は二タ子1丁目駐在員の川添俊昭さん(68才)という方で、約10年前まで兼業農家として農業していたとのことだった。川添さんは昔の記憶をたどりながら出来る限りのことを僕達に話してくれた。(塩水、五反田、しょうだ等)まだ他にも二タ子にある火力発電所は埋め立てによるものであるということも分かった。 その後川添さんの紹介で、川添和俊さんや唐津市議会議長の村山健吾さんを訪ねたが、いずれも留守のことで話を聞くことはできなかった。 【末蘆館】 何人か話を聞いていく内に「この辺の農業のことを調べているなら末蘆館へ行ってみなさい。」と言う人がいらっしゃったので、せっかくだから一通り調べた後行ってみることにした。 〜末蘆館とは?〜 日本古代の高床倉庫をイメージして作った建物で、木造建築の良さを取り入れている。内部は展示室、収蔵庫などからなり、日本稲作発祥の地・菜畑遺跡の出土品を展示している歴史博物館である
○水田 菜畑遺跡で発見された日本最古の水田は、小規模(10u〜40u。平均で20〜30u程度)なもので、谷に沿って細長く広がった谷水田と考えられている。おそらく赤米が実っていた。
○菜畑遺跡の発見 都市計画街路建設に伴う文化財調査が昭和54年(1979年)に行われていたことに起因する。
=調査を終えて= 今回調査した所はだいぶ都市化が進んでおり、なかなか成果が上がらなかった。その上、農家の数も年々減少しているということで、実際に話を聞くのも一苦労であった。このような調査は年月が経てば経つほど難しくなるということを実感した。 |