【唐津市見借地区】

 

1LA97221 廣中麻美

 

 

<聞き取りしたおじいさん・おばあさんの名前と生まれた年>

 ・宮崎忠一さん 昭和4年 住所:唐津市見借

 ・坂田健一さん 大正7年(見借老人会長) 住所:唐津市見借

 

 

<しこ名一覧>

 ・カミヤシキ             ・トンバタケ

・フカサコ              ・ダミチ(駄道)

・ゲンシンボウ            ・ジイショ

・オバンフツクラ           ・ヨドヒメ

・コハザ               ・ヤツバナ(八ツ花)

・タニグチ              ・ダジ

・フキンタニ             

・タナカ               (計14コ)

 

田畑

小字 井尻のうちに

ヨドヒメ

小字 若宮崎のうちに

ダジ

小字 柳井町のうちに

ゲンシンボウ、タニグチ

小字 倉瀬戸のうちに

コハダ、ジイショ

小字 仁多田のうちに

トンバタケ、ダミチ(駄道)

小字 松ノ元のうちに

カミヤシキ、フカサコ、タナカ

小字 山口のうちに

フキンタニ、ヤツバナ(八ツ花)

小字 中代のうちに

(仲代か)

オバンフツクラ

 

 

使用している用水の名前

用水源

ニシノマエ井堰

スギノモト井堰

中代川

(仲代か)

ヤナイマチ井堰

マツノキ井堰

オオイデ(大井手)井堰

ニタダ(仁多田)井堰

フロンモト井堰

ヒロタ井堰

佐志川

<昔の配水の慣行・約束事>

井堰番は村の中で順番だったらしい。

昔の水争いは特になかったそうだ。

 

 

<一日の行動記録>

 バスから下りて、まず薬屋さんに見借のだいたいの位置を聞いた。その時の話では10分で着くと聞いていたので、早く着くのかと思っていたら、一時間ほどかかってしまった。道のりは単純ではあったが、距離があった。

 まず、最初に宮崎忠一さんのお宅にお邪魔した。その次は、昼食にさしかかっていた時間帯だったので、神社で食事をとった後、あるお宅を訪ねたが都合が悪く、その次に訪れた家で、多少、村のことについて教えてもらうことができた。

最後に坂田健一さんの家で、老人会会長をしている健一さんに長くお話を伺うことに成功した。どの家族の方も大変親切で、嫌な顔一つせず、質問をたくさん聞いてもらえた。忠一さんのお宅ではみかんをいただき、健一さんのお宅ではコーヒーをいただいた。見借の人々の温かさに感動した。当日は大変寒かったため、温かいコーヒーはとてもうれしいものであった。

最後の健一さんのお宅を終えた後、帰路についた。そしてバスに乗ることができた。

忠一さんのお宅の時は、外で長時間伺ったため、大変寒かった。忠一さんがかぜをひいていなければよいと思いつつ、バスの中で疲れて寝てしまった。

 

 

<教えてもらったこと>

 見借の盆地のことを昔、「カスミガサト」と言っていたらしい。由来は、昔、偉い人が高い所から見借を見下ろした時に、いっぱい霞がかかっていたところからついたらしい。

 しこ名について聞いたが、14コ以外は聞くことができなかった。それ以上はもうないらしい。これから、しこ名のそれぞれの由来を記すことにする。

 カミヤシキは神が流れついたことからついたらしい。庚申神社の神様の前に住んでいた神が大雨で流れて、庚申さんの御神体の石が川の中にあって、いくらやっても動かなかったらしい。そこで、庚申神社の神主が来ておはらいをしたら、それが動いたので、それからまつったということを、カミヤシキの話を聞いた時に聞くことができた。

 それが300年ぐらい前の話で、その時に神社ができて、浮立(ふりゅう)という伝統芸能を奉納したという。それが浮立の始まりで、そのことを「初庚申」という。その年の一番最初の旧暦のさるの日にやり、唐津市の伝統文化財にもなっている。ふえたいこ20種類ぐらいの踊りから成っているそうだ。

 ゲンシンボウは神主が昔住んでいたところらしい。ゲンシンが神主という意味らしい。

 ヨドヒメは、昔の見借の庄屋さんの娘がヨドヒメといって、その住んでいた場所からきている。

 ダミチは駄道の字をあてる。昔、道がなく、馬で通ったことから来ている。

 フキンタニは、偉い人が住んでいた付近からきている。

 オバンフツクラは、その田畑一帯に西陽がよく当たり、温かいことからきていて、オバ(おばあさん)のフツクラ(ふところ)のように温かいという意味からきている。

 次に、水利についてであるが、小さな水争いはあったらしいが、特にはなにもなく、他の村とは全くなかったらしい。井堰の権利者は村一般ではなく、管理者のものであったらしい。ため池は村で管理したらしい。ゴミのことについても聞いたが、特に出なかったということだ。馬場ため池から農業用水はとっているらしい。4000ℓぐらいたまるらしい。飲料水はヒラコバ(タケコバ)ダムからとっているらしい。水道はそこからひかれている。大旱魃があった時は、水上げ機でまかなって、補助水をもらって乗り切ったということらしい。災害補助金は、井堰の所有者がもらっていた。

 昔の村の道は、アナグマミチがあったらしい。

更に、風呂は共同風呂で4つあったということだ。燃料の薪は、自分の持ち山からとってきていたらしい。昭和30年まであったということだ。

その次に、現金収入は、タバコ・米・麦・野菜づくり・日雇いから得ていたらしい。タバコは一年作ってやめたという家もあった。後、墓石掘りなどもしていた。

後、見借の庄屋の先祖に、宗田運平という人がいて、その人は天文学者で、殿様にも教えに行っていたほどらしい。日本でも有名な天文学者で、庚申神社にその人の記念碑があるということだ。

 

 

<調査全体を通して>

 地図をはりつけていくのが大変で、なかなか地図が読みづらかった。

見借に着いたら着いたで、多くの人は仕事があるらしく、働きに出ていって都合がつかないので、突然訪問したお宅で伺うこともあった。

 だいたいのお宅は「忘れている…」と言いながらも、しつこくねばってその周辺のことを聞いていったら、思い出しながら言ってくれることもあった。

見借は、思ったよりも村というか家がたくさんあった。田畑もあったが、広い家も多かった。調査の時には、常に礼儀を重んじることに注意した。



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