【唐津市熊ノ峰】
1LT97067 白士竜馬、1LT97095 藤 芳成
<話者> 大石春男さん(大正6年4月生、80才)
<しこ名一覧> 【熊ノ峰】 ・アナズミ:最も奥にあるので、そこに行く時に穴の中に入って行くような気がするから ・デイノウエ(提上〔堤上ヵ:入力者注〕):川の提(「デイ」という)の上にあるから ・ミチダ ・オテグチ:用水路の水が落ち込んでいるから ・イエノシタ ・イエノマエ ・タイシサンのヨコ ・タイシサンのマエ ・ナカコバ ・トオノカワダ:川の向こう側にあるから ・ウメノキヤボ:大きな梅の木があったから(今はもうない)
※熊ノ峰では、田に付ける名前は、しこ名とは言わずに字(あざ)と言う。しこ名は人に対して付けていたそうです。ex.山に入る時など ※熊ノ峰では、しこ名(字)は、家々によって異なり、統一されていない。
【田畑】 ・小字大西のうちに:アナズミ、イエノマエ、イエノシタ、オテグチ ・小字中木場のうちに:トオノカワダ、ナカコバ、デイノウエ ・小字熊ノ峰のうちに:タイシサンノヨコ、タイシサンノマエ
【他】 ・小字崎登屋(サケドヤ)のうちに:クロタケヤマ ・小字立岩のうちに:オオイシ(大石)…近年取り除かれる予定
※立木や特殊なモノを目印にして、名前を付けたそうです。
【屋号】 ・ウメノキヤボ:大石泰男さん宅 ※ヤボ=茂み ・オテグチ:大石春男さん宅 大石春男さん宅から見て… 本家:大石春男さん宅、新屋(シンヤ):大石勝人さん宅、となり:大石為次さん宅
<水利> ・熊ノ峰は、トオノカワから直接水を取り込んでいるため、水利権などはない。現在は区費を払っているが、水についての取り決めは特にない。 ・1994年の大渇水の際は、特に水不足に悩むことはなかった。 ・水をめぐっての争いは、熊ノ峰ではなかったが、周辺の村ではあったそうである。だから、他の村では、ため池ごとに水番と呼ばれる人を置いて、水の管理をしていた。なお、水番には給料が支払われた。
【水害について】 ・熊ノ峰は度々水害にみまわれていたが、中でも一番被害が大きかったのは、S28年に起こったものだった(通称:28すい)。この時は、川ぞいの田はすべてダメになってしまい、上の方で少しだけ取れたそうだ。しかし、この年も税金として米を出さなくてはならなかったので、農民たちにはつらい一年となったそうです(なお、税金の率は検見で決定された)。 ・現在は、岸・底ともコンクリートで固められており、水害の心配はない。しかし、昔はたくさんいた、ハエ(ハヤ)・ウナギ・フナなどは姿を消し、今いるのは小さな魚とツガニだけだそうだ。しかし、2、3年ほど前からは蛍も飛びはじめた。 ・昔は唐津近郊(シタバ)で、牛や馬や豚を飼っていたが、周りの家から「臭い」という苦情が出たので、山の上に移ってきた。しかし、今度はそれらのふん尿で川の水が汚れるという事態が発生した。
<熊ノ峰の農業> ・現在は早期作というものを行っていて、盆過ぎにはもう刈り入れができるので、水不足や干ばつの被害を受けることも少なくなった。 ・昔はハヤモンとオソモンというものを植えていて、オソモンの方は11月ぐらいに刈り入れをするので、夏の干ばつの被害が大きかった。
<今後の熊ノ峰> ・子供不足、団結力不足⇒村の祭りが行われなくなっている原因 ※子供は約2.5q離れた竹木場の学校に通っている。 ・後継者がいない!!(一番深刻) ・部落が消える可能性大
昔:少しでも多くの田を持とうとした。 今:田を売って子供の学費をつくった方が良い。 田を売りに出しても誰も買わない。
<肥料> ・昔は肥料として草を使っていた(刈敷)。 ・今は化学肥料を使っているが、豚のふんを乾燥させたもの(1俵=100円ぐらい)も併用している。そのために、野菜はいいものができる。 ・世の中では有機栽培がもてはやされているが、春男氏曰く、有機栽培だけでは作物は作れないそうです。やはり、薬を使わなければ害虫がつく。
<祭祀について> 【ナツギトウ(夏祈祷)】 ・災害が起きないように、初夏に波多八幡神社の神主をよび、祝詞をあげてもらう。熊ノ峰は波多八幡神社の氏子。
【タナバタ(七夕)】 ・この辺と一緒で、子供が願いごとを書いた短冊を笹につける。
【イノコマツリ(亥の子祭り)】 熊ノ峰周辺の子供のまつり。家々をまわって、お金やモチをもらう。 由来…十二支の最後の年、亥の年、いのししは勇猛、猛しく成長することを念願した。その祝福年中行事である。そこで稲の取り入れが済んだ秋の十月の最初の亥の日に祝をする。その行事がいつ始まったのかは不明だか、今なお続いている。
この今の歌に、男児出生を謳歌して、女児をさげすむ文句が入り、男女平等の現代の風潮に反するので問題となり、亥の子祭りがなくなった区もあるが、竹木場、菅牟田、唐の川では今なお続いている。
<その他> 【大石家の由来】 キダケ城の城主が、長崎の有馬藩との勢力争いによって四ッ木で敗れ、熊ノ峰に落ちのびていったのが、大石家の始まりとされている。しかし、これは口承なので、現在では二百年前までしか家系が明らかになっていないらしい。口承が事実であるとすれば、四、五百年前のことになるそうだ。 熊ノ峰には十軒の家があるが、全て大石姓である。今回お邪魔した春男氏宅が本家に当たるらしい。 熊ノ峰まで来る途中、大きな石が4、5個、山の斜面にむき出しの状態であった。それが「大石」という名字の由来になったのではないだろうか。現在、区に申請を出しており、近いうちに石をとっぱらってもらうそうだ(そうしないと、下にある家が危険である)。
【大石膏について】 唐津の殿様の奥方が病にかかり、乳が大きくはれてしまった。そこで、ある女の医者が薬を使って膿を吸い出した。この時使ったはれものの薬が、「熊峯の大石膏」として大石家の家伝薬となった。春男氏宅の上側にあった家が、当時、薬をつくっていたらしい。現在では、鳥栖のヒサミツ製薬が買収し、その販売を行っている。
<感想> 竹木場でバスを降り、徒歩で熊ノ峰に向かった。目的地まで、2、3q山道を歩いていったわけだが、途中、牛を飼っている農場や、養鶏場を通りかかったり、直径7mほどの大岩が4つむき出しになっている斜面に出くわしたりして、驚いてばかりであった。 歩くこと30分、大石さん宅に到着。うろうろしている所をおばさんが見つけてくれて、無事、おじいさんの話を聞かせていただけることになった。80才という高齢にもかかわらず、しっかりとした口調で熊ノ峰について語っていただき、我々も大変スムーズに聞き取りを行うことができた。暑い中、家の外に出て、大まかな場所の説明をしていただいたが、細かく決まっていることがないため、少しあやふやな所もあり、あまりしつこく聞くわけにはいかなかった。そのため、おじいさんの方が心配して「わしのせいであんたらの成績が悪くなっては悪いのう」と言って、一生懸命思い出そうとしていただき、少し申し訳ない気がした。「家の中に何か役に立つものがあるかも…」と言って、家に入れていただき、古い地図のようなものを見せていただいたが、ご本人もよくわからないということだった。一段落着いたところで、ご夫婦が「ぜひごはんを…」とおすすめになるので、断ることもできず、これも現地調査の一環であると考え、ごちそうになることにした。メニューは、ごはん、みそ汁、きゅうりのつけもの、焼き魚といった具合で、味は格別おいしかった。ご夫婦とも大変親しくなり、「また今度ぜひ寄ってください」と別れを惜しまれながら、大石家を後にした。 公民館の前で、聞き取った内容を簡単にまとめ、近くにあった唐ノ川や山王権現社にも立ち寄り、熊ノ峰に、より一層親しむことができた。帰る途中、行きがけに出会ったおじさんに軽トラで竹木場まで送ってもらった。軽トラにゆられながら、山の風景を楽しんだ。竹木場でおろしていただき、待つこと30分、バスが到着。疲れた身体の最後の力をふりしぼり、バスの中に乗り込む。 |