【唐津市小十】 佐賀県調査レポート
1LT97001 相部健一郎、1LT97011 石川 徹
<話者> 前田正雄さん(78歳、大正8年2月生まれ)
・払谷や縫成のように、小字がそのまましこ名となっているものもあった。 ・山桃谷は、小十の所有地(山ノ谷)と梨川内の所有地に分かれていた。 ・小字は道によって区分されていた。
話を伺った人:前田正雄さん(78歳、大正8年2月生まれ)
<屋号について>
・他の家には屋号はなく、それぞれが家主の名前によって区別していた。 ・これ程同じ姓の人が住んでいるところは、はじめてだった。
小学校は大良小学校、中学校は大良中学校だったそうだ(通学路は地図)〔添付地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕。そして、総称的に大良学校と呼んでいたそうだ。今の学校は、昔の場所が土地の関係でだめになって、中尾の今の場所に移ったそうだ。中尾に移っても、名前は大良のままらしい。
<村の水利> ・小十は山の近くにあるため、水田に用いる水は、山からのわき水(出水〈でみず〉)だったらしい。その水をうまく利用できるようにあぜを作っていた。 ・圃場整備後は後川内ダムから水をひいて、バルブをひねれば、水が田に入るようになったそうだ。また整備していない田は、今でもわき水を使っているらしい。 ・1994年の大旱魃の時はダムの水があったらしく、それほど困らなかったようだ。 争いはなかったそうだ。
<村の耕地> ・田んなかの出来不出来の差は半俵くらいで、だいたいどの田んなかも1反あたり6俵はとれていたらしい。6俵半もとれる田は上田だったそうだ。 ・戦前の肥料は、田んなかも畑も金肥を使っていたそうだ。
<村の祭祀> ・20年ほど前はまでは11月23日に祭りをしていたそうだ。 ・祭りの前後に、親類やつきあいのある人々を招待して、ごちそうでもてなしたそうだ。ごちそうは、煮しめなどだったそうだ。 ・村の役員は持ち回りだったそうで、区長、駐在、夫人〔婦人ヵ:入力者注〕会会長、子供クラブ役員、生産組合長などの役員を受けもった人は、たくさんの人をもてなしていたそうだ。 ・お盆は旧暦でやっていたそうだ。
<小十村の歴史> 東松浦半島上場台地の中央の丘陵地。大良の小盆地の南部に位置し、大良川(大平川)上流の寺前川沿いの村落である。梨子河内村より上流にある。正保絵図に「小次郎官者村」とあり、明和年間(1764〜72)の絵図には「小十官者」と記す。文化年中記録に畝数二町九畝二九歩とある。 村名について「松浦記集成」の古唐津焼物の項に、小次郎官者なる高麗陶工が居住したことによると伝える。しかし、「くす」は「くわす」のなまりで「※〔上に「火」、下に「寸」の漢字:入力者注〕」と書き、焼畑を意味する。したがって焼物陶工と直接結びつくかは疑問である。 字桃谷に古唐津の小十窯跡がある。小次郎官者が陶器を造った跡と伝えるが、戦国末期から江戸初期頃のもので、窯跡は破壊されている。南の丘陵地に第二次世界大戦後開拓された東山の村落があり、藩政期の赤坂村の一部も編入されている。
昔は、一戸あたり水田が二町、山林5ha、畑三段くらい所有していたそうだ。 家で病人が出ると、木を何本か切ってお金に換え、リヤカーで病人を運んで唐津まで行ったそうだ。今では自動車のおかげで、タバコ1本吸い終わる前に唐津まで行けるようになったそうだ。
昔、田植えは竹を7尺に切って、それに沿って植えていたそうだ。 草取りは、縦横に道具を押した後、手さぐりで草をさがし、取った草は稲の根本につきさして、土を上からかぶせていたそうだ。
<一日の行動記録> 8:30 六本松出発 10:55 農協前でおりる。 11:30頃 作業から帰ってきた女の人に話を伺う。 若い人だったので、あまり知らなかったようだ。正雄さんを紹介される。
前田重信さんに話を伺う。 重信さんに、その父の正雄さんが帰宅する13:00頃に、また来るように言われる。 12:15 昼食 13:00 前田正雄さんに話を伺う。 14:30 重信さん・正雄さん宅を出る。 15:00 農協前着 15:30 バスに乗る。 17:40 六本松着
<添付地図中のしこ名一覧> ・オオチギ ・オオマツ ・カミアナガマ ・キリゴミ ・サカ ・シマノモト ・シモアナガマ ・シンヤマ ・ヌイジョウ ・ハライコバ ・ハライダニ ・ヒロコウラ ・ミズアライ ・ムカイ ・ヤマニャ ・ヤマンタニ |