【唐津市小十】

佐賀県調査レポート

 

1LT97001 相部健一郎、1LT97011 石川 徹 

                       

 

<話者>

 前田正雄さん(78歳、大正82月生まれ)

 

村の名前

しこ名一覧

小十

オオマツ(大松)    ヤマンタニ(山ノ谷)   シンヤマ(新山)

キリゴミ(切木道)   ハライコバ(拂木場)

ハライダニ(払谷)   ヒロコウラ(広高良)

ムカイ(向)      ヤマニャ(山仁屋)

オオチギ(大知木)   ヌイジョウ(縫成)

カミアナガマ(上穴釜) シモアナガマ(下穴釜)

田畑

小字払谷のうちに

キリゴミ(切木道)

小字菰田のうちに

ムカイ(向)

小字楠谷のうちに

オオチギ(大知木)

小字縫成のうちに

ヌイジョウ(縫成)

小字葛山のうちに

ヤマニャ(山仁屋)

小字河内山のうちに

ヒロコウラ(広高良)

シンヤマ(新山)

ハライコバ(拂木場)

小字上穴釜のうちに

カミアナガマ(上穴釜)

小字下穴釜のうちに

シモアナガマ(下穴釜)

小字払谷のうちに

オオマツ(大松)

ハライダニ(払谷)

小字山桃谷のうちに

ヤマンタニ(山ノ谷)

 

・払谷や縫成のように、小字がそのまましこ名となっているものもあった。

・山桃谷は、小十の所有地(山ノ谷)と梨川内の所有地に分かれていた。

・小字は道によって区分されていた。

 

話を伺った人:前田正雄さん(78歳、大正82月生まれ)

 

 

<屋号について>

屋号

家主の名前

由来・その他

堂谷

前田光幸さん

前田 貢さん

貢さんは分家だそうだ。

上口

前田農夫男さん

前田敏彦さん

 

西

前田重信さん

このお宅のおじいさんが正雄さんである。

村の西にあったから、この屋号になったという。

屋敷

前田勇人さん

昔、他の場所に家があったのだが、水害がこの周辺を襲い、屋敷を現在の場所に移したことからこの屋号になったという。

力石春男さん

村の東にあったから、この屋号になったという。

役場

力石邦生さん

昔、この家は庄屋であった。現在もその面影を残すように石垣があって、その上に大きな家があった。

神田

力石喜代治さん

昔、この家の前に矢房神社の神田があったことから、この屋号がついたという。

 

・他の家には屋号はなく、それぞれが家主の名前によって区別していた。

・これ程同じ姓の人が住んでいるところは、はじめてだった。

 

小学校は大良小学校、中学校は大良中学校だったそうだ(通学路は地図)〔添付地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕。そして、総称的に大良学校と呼んでいたそうだ。今の学校は、昔の場所が土地の関係でだめになって、中尾の今の場所に移ったそうだ。中尾に移っても、名前は大良のままらしい。

 

 

<村の水利>

・小十は山の近くにあるため、水田に用いる水は、山からのわき水(出水〈でみず〉)だったらしい。その水をうまく利用できるようにあぜを作っていた。

・圃場整備後は後川内ダムから水をひいて、バルブをひねれば、水が田に入るようになったそうだ。また整備していない田は、今でもわき水を使っているらしい。

1994年の大旱魃の時はダムの水があったらしく、それほど困らなかったようだ。

争いはなかったそうだ。

 

 

<村の耕地>

・田んなかの出来不出来の差は半俵くらいで、だいたいどの田んなかも1反あたり6俵はとれていたらしい。6俵半もとれる田は上田だったそうだ。

・戦前の肥料は、田んなかも畑も金肥を使っていたそうだ。

 

 

<村の祭祀>

20年ほど前はまでは1123日に祭りをしていたそうだ。

・祭りの前後に、親類やつきあいのある人々を招待して、ごちそうでもてなしたそうだ。ごちそうは、煮しめなどだったそうだ。

・村の役員は持ち回りだったそうで、区長、駐在、夫人〔婦人ヵ:入力者注〕会会長、子供クラブ役員、生産組合長などの役員を受けもった人は、たくさんの人をもてなしていたそうだ。

・お盆は旧暦でやっていたそうだ。

 

 

<小十村の歴史>

 東松浦半島上場台地の中央の丘陵地。大良の小盆地の南部に位置し、大良川(大平川)上流の寺前川沿いの村落である。梨子河内村より上流にある。正保絵図に「小次郎官者村」とあり、明和年間(176472)の絵図には「小十官者」と記す。文化年中記録に畝数二町九畝二九歩とある。

村名について「松浦記集成」の古唐津焼物の項に、小次郎官者なる高麗陶工が居住したことによると伝える。しかし、「くす」は「くわす」のなまりで「※〔上に「火」、下に「寸」の漢字:入力者注〕」と書き、焼畑を意味する。したがって焼物陶工と直接結びつくかは疑問である。

字桃谷に古唐津の小十窯跡がある。小次郎官者が陶器を造った跡と伝えるが、戦国末期から江戸初期頃のもので、窯跡は破壊されている。南の丘陵地に第二次世界大戦後開拓された東山の村落があり、藩政期の赤坂村の一部も編入されている。

 

昔は、一戸あたり水田が二町、山林5ha、畑三段くらい所有していたそうだ。

家で病人が出ると、木を何本か切ってお金に換え、リヤカーで病人を運んで唐津まで行ったそうだ。今では自動車のおかげで、タバコ1本吸い終わる前に唐津まで行けるようになったそうだ。

 

昔、田植えは竹を7尺に切って、それに沿って植えていたそうだ。

草取りは、縦横に道具を押した後、手さぐりで草をさがし、取った草は稲の根本につきさして、土を上からかぶせていたそうだ。

 

 

<一日の行動記録>

 830    六本松出発

1055    農協前でおりる。

1130頃    作業から帰ってきた女の人に話を伺う。

若い人だったので、あまり知らなかったようだ。正雄さんを紹介される。

       

前田重信さんに話を伺う。

       重信さんに、その父の正雄さんが帰宅する1300頃に、また来るように言われる。

1215        昼食

1300        前田正雄さんに話を伺う。

1430    重信さん・正雄さん宅を出る。

1500    農協前着

1530    バスに乗る。

1740    六本松着

 

 

<添付地図中のしこ名一覧>

・オオチギ

・オオマツ

・カミアナガマ

・キリゴミ

・サカ

・シマノモト

・シモアナガマ

・シンヤマ

・ヌイジョウ

・ハライコバ

・ハライダニ

・ヒロコウラ

・ミズアライ

・ムカイ

・ヤマニャ

・ヤマンタニ



戻る