【唐津市柏崎】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97220 平山 博久

1LA97214 稗島 功史

 

調査日:199776日(日曜日)

話者:浦田 始さん(76歳)

浦田 伊勢男さん

青木 安次さん

青木 イセノさん(88歳)

 

私たちが調査した柏崎地区で最も印象に残ったのは、村の水利が非常に複雑な歴史を持っていることであった。浦田始さん(76歳)の話によると、ずっと昔から池の浦と言うため池だけから水を引いていたようだ。またその用式は自然引水であり、人の手を必要としないため大変便利であった。ところが、柏崎の隣の原地区にも水を分けてやり、その代償にお米やお金をもらうようになると水が足りなくなり、宇木川からも自然引水で水を引くようになった。そして干害に備えて約60年前に松浦川から水を引くためのポンプと水路を作った。しかしまだ水は引いていなかった。水を田に引き始めたのは、やはり旱魃の頃からで、大変効果があったようだ。

水をめぐって原地区との争いもあったようだが、あまりにも昔の話で具体的な内容をご存知の方はいらっしゃらなかった。

また、現在最も利用されている池の浦について不明な点が残った。それは池の浦を、唐津市が管理しているか柏崎が管理しているか、である。ある人は唐津市、またある人は柏崎だとおっしゃるのではっきりしなかった。昔は柏崎が管理していたので、自由に原地区に水を分けたりしていたのだが、今はやっていないそうなので、唐津市が管理しているとも考えられる。

 

圃場整備事業や化学肥料の使用変化については、やはり大きな変化があったようだ。昔、用水路であった所にポンプがつけられたり、水路上にあった石橋を壊すといった技術的な面での変化だけでなく、田の収穫量にも大きな影響があった。その内容として、今まであまり収穫のなかった田の収穫量が大幅に増えたりしたことが挙げられる。私たちの調査前の予想としては、収穫量が全体的に増加して村の生活が豊かになるものであったが、実際は初めからよく収穫されていた田ではあまり変化がなく、変化があったのは先に述べたように収穫量の低い田だけであった。しかし全体的に見ると低い収穫量の田が結構あったため、平均収穫量が大幅に増加したようだ。昔は収穫量の高さで、一等田、二等田、三等田と分類されていたが、三等田の収穫量が一等田の収穫量と対して変わらなくなったため、現在ではその区別はされていない。

 

村の祭祀には、祇園様、弁財天様、荒神様などがあるようだが、前の2つの方は柏崎、残りの1つは部田の柏崎だけの神であった。しかし現在では祇園様と弁財天様を1つに合わせて総称で祇園様と呼んでいる。祇園様は八坂神社に祀られており、師走の十三日にお祭りがある。部田のほうは距離がありすぎて調査できなかった。

 

柏崎地区内に、川頭と大井出と呼ばれる地区があるが、昔は川頭も大井出に含めていた。しかし現在では逆に大井出を川頭に含めている。

 

小字には宋組、北の崎、松本、西組の4つがあり、葬式などは宋組と北の崎の2つの地区が加勢し合っている。ここまでの話は青木イセノさん(88歳)によるものである。

 

また、柏崎地区に高速道路のインターが建設される予定で、土井崎の地区にかかる予定なので、土井崎地区に田を所有した人はその田を売らねばならなかったので、売却して多大なお金を受け取り新宅を建てている。ただでさえ減少傾向にあるが削減されてしまって、村の人は本当に心配している。

 

裏作をやっている田はあまりなく、やっている所は麦を作っている。戦前の肥料が使われていた頃に一等田では1反当り8俵とれていて、三等田では5俵とれていた。しかし、化学肥料によって3俵の差がうまり、裏作をやっていた人が現在のように減ってしまった。

また近くの長崎山付近に森を開墾してみかんを作っている農家が多くいたが、現在は1件だけになっている。

 

最後に柏崎の農業はどうなっていくだろうか。現在の日本の傾向は第三次産業に移行しており、それは柏崎にも当てはまるのではないかと当初私達は思っていたが、実際農業に従事している人の数はあまり減っていないようだ。減っているのは田の面積であった。それは道ができることによって減ったり、自分から減らしたりするものだった。全体的に1割ほど田が減った。

また別の問題に跡取りがいないことが挙げられる。これはどこの農家にも言えることであり、唐津の方に勤めている若い人が増えているようだ。その結果、田で働ける人の数が減り、そのことで収穫量が減少し、米だけでは食べていけなくなったため、また農家が減っていくといった悪循環が起こっている。しかし、一部の人は園芸農業を副業としてやっている人がいる。園芸農業では、イチゴが主であり品種は「とよのか」と言うそうだ。

 

感想

佐賀の現地調査を終えて、久しぶりに人の温かさに触れた気がした。忙しい農家の仕事の合間に私たちの調査に丁寧に対応して下さったことに大変感謝している。最初に伺った浦田さんはご飯をご馳走して下さったばかりでなく、柏崎の地に詳しい人を紹介して頂き、帰りのバス停まで車で送って下さってとても有難かった。

また圃場整備後、昔から使われてきたしこ名が消えて行っていることに寂しさを覚えた。こうした現地調査という形でしこ名の保存に参加することは、大変意味があることだと思った。佐賀の人たちも、私達が尋ねたことで昔の地名を懐かしく思い出して頂ければ幸いである。今後の農業を考える場合、機械化や圃場整備など新しいものを取り入れるだけでなく、古いものを大事に保存する努力も必要ではなかろうか。今回、佐賀の調査を行って、つくづくそのことを考えさせられた。次に佐賀に行った時には、今回のお礼を兼ねてもっとゆっくり話がしてみたいと思う。

 

行動記録

830 六本松本館前集合、出発。

1030 どうやら降りる場所を過ぎていたらしい。もとの道を引き返す。

1115 バスを下車。住宅地図を片手に地元の人に道を尋ねながら柏崎地区を目指す。

1145 30分ほど歩くと柏崎地区に到着。アポを取っていた浦田さん宅へ向かう。

1150 浦田伊勢男さんは留守らしい。浦田始さん(76歳)に話を伺う。柏崎地区では田畑を呼ぶときには小字を使うのが一般的になっていて、しこ名を使う事はあまりないらしい。それでも「昔から使われている地名で家族の間だけで通じるものなどはありませんか」と尋ねると、いくつかのしこ名を聞き出すことができた。しかし圃場整備後、田畑の形も随分変わっていて地図に書き込む事は困難を極めた。

1230 浦田伊勢男さんが農作業から帰って来られた。伊勢男さんは養子らしく、柏崎の地にはあまり詳しくないらしい。そこで奥さんに柏崎の事を聞いていた。しかし奥さんも年齢があまり高くないためか、しこ名についてご存知の事は少なかった。柏崎の歴史についての資料も見せてもらったが、古墳や土器の写真ばかりでしこ名収集の手掛かりはつかめなかった。

近所に考古学を研究する中里先生と言う人がいらっしゃるというので紹介を受けたが、あいにく留守であった。そこで村の長老である市丸さん宅のおじいさんに話を聞いたが、前に述べたように村ではしこ名はあまり使われなくなっており、聞き出すことができなかった。その後浦田さん宅で食事を頂き、近所を回ることにした。

130 浦田さんの紹介で青木安次さんの家を訪ねる。青木さん宅には青木イセノさん(88歳)がいらっしゃって、昔のことを色々と話して下さった。昔は今の中学生ぐらいの年齢から農作業に従事していたそうである。また他の村との水争いの話や様々な苦労話をして下さり、今の生活との大きな違いに驚き、また感銘を受けた。青木安次さんは高速道路のインターチェンジができるという話や、化学肥料が使われるようになって農業がどう変わったか、などたくさん話して下さった。

230 しこ名を集めるために近所を回る。幾つかのしこ名を集めることができたが、やはりしこ名はあまり使われないようになってきており、こうした形でしこ名を調べる事はとても意義深いことだと思った。

4時過ぎ バスが迎えに来る。

 

村の名前

<柏崎>

田畑

小字 久里崎

のうちに

タケノシタ(竹下) またの名をガメンネドコ

…粘土層の土地であるために以前はよく米がとれていたらしい。

小字 大深田

のうちに

ミゾゾエ(溝添)、ナナツエ(七ッ枝)

小字 木苗田

のうちに

ツカンモト(塚本)、ハッタダ

小字 割石

のうちに

ゴタダ(五藤田)             

小字 田島

のうちに

イヌイダ(乾田)

小字 石蔵

のうちに

ニシノソノ(西園)、イノシリ(猪尻)

小字 大井出

のうちに

タマンハシ

…以前は橋の名前だったのが、次第にその橋の周囲の田畑を表すようになった。

小字 堤山

のうちに

テラノウエ(寺上)

小字 荒毛

のうちに

ジョウバラ(城原)

小字 下田

のうちに

ナガサキヤマ

小路

小字 石蔵、

外園のうちに

キタノサキ(北の崎)、マツモト(松本)、ヒガシグミ(東組)

小字 橋本、

割石のうちに

ニシグミ(西組)

 



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