【唐津市菅牟田】

歴史と異文化理解A 佐賀県調査〜菅牟田村〜

 

1LT97082 田中大輝、1LT97086 谷口達史

 

日時:平成976日(日)

協力者:池田善郎さん(昭和13年生まれ)

 

 

<行動記録と調査結果>

 1040分頃、竹木場の小学校の前で下車。地図を見ながらひたすら歩き、およそ20分で菅牟田に到着した。今回の調査の舞台となる菅牟田村は唐津市のほぼ中央に位置し、四周を峰巒で囲まれた大地の凹地にある。調査の一週間ほど前に担当(?)の前田力氏に手紙を出したが返事がなく、その後電話もかけたが、これもうまく連絡がとれず、結局行き当たりばったりの調査となってしまった。不安と緊張が渦巻く中、調査はスタートする。

 まず、道路を挟んだ東側の家を2軒訪れたが、どちらも留守のようであった。そこで今度は西側の家を訪れると、中学生ぐらいと思われる男の子が出て来た。しかし、彼の話によると、その日は周囲の村々の球技大会の日で、菅牟田の人達もほとんど竹木場の小学校に集まっているらしい。竹木場の小学校といえば、我々が最初にバスを降りたところではないか。我々は言葉を失い、早くもたちこめる暗雲に動揺を隠しきれないまま、しばし悲愴感に浸っていた。

 だが、諦めて帰るにはあまりにも早すぎたので、とりあえず気をとり直して隣の家を訪ねてみると、30才ぐらいの男性がおり、昔のことに詳しい人なら東側を探した方が良いと教えてくれた。そこで我々は再び道路を挟んだ東側に行き、少し高台にある家を訪ねた。そこで出て来たのは、糸山さんという知的な雰囲気の漂う65才の男性であった。糸山さんは我々の話に興味深く耳を傾けてくれ、何とか力を貸そうとしてくれたのだが、勤めていた市役所を退職し、菅牟田に住み始めたのは最近のことだそうで、あざなについては全く知らなかった。だが、糸山さんは我々に大変有益な情報を提供してくれた。この辺りで最も田のことに詳しいのは、墓地公園の管理人をしている池田善郎さんという方であるというものだ。我々は暗闇の中に一筋の光を見出したような気がし、糸山さんに後光がさしているように感じた。

 我々は住宅地図を頼りに池田さん宅に辿り着いた。しかし、善郎さんはやはり墓地公園の方に行っており、不在であった。そこにいた息子さん(30代半ばぐらい)の話によると、昼食を食べに昼頃戻ってくるということであったが、その時はまだ1130分すぎであり、墓地公園もたいして遠くないということだったので、そちらの方へ行ってみることにした。もし、善郎さんがあざなについて何も知らなかったら、もう終わりである。背水の陣を敷いて墓地公園に向かう。

 息子さんの話によると、道の途中にあるゴルフ場のクラブハウスから500mほど行ったところが墓地公園であるということであったが、十数分前にクラブハウスを通り過ぎたものの墓地公園は一向に見えてこない。視界に広がるのは、バスの中で見えた唐津市の町並と広大な海のみである。暑さと疲労のために何度も引き返そうと考えたが、あの角を曲がれば目的地が見えるかもしれないという淡い期待に突き動かされ、ひたすら歩を進めた。もう後には引けない状態である。道中3台の車とすれ違った。あの中の1台が池田さんの車なのでは…などと最悪の事態を想像して互いに乾いた笑みを浮かべながら、さらに進んだ。

 歩き始めて30分、実際にはもっと長い時間のように感じられたが、ついに墓地公園に到着した。我々は途中で諦めなかったことを称え合い、喜び勇んで(図)の建物に入って行った。

 

〔図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵〕

 

――が、管理人室には誰もおらず、その代わりに休憩室のテーブルの上に1枚のメモ書きが残されているだけであった。そして、そこには、「ただ今 昼飯休憩中です。1330分頃戻ります。―管理人―」とあった。

 現在12時過ぎ…。我々はあの車のうちのどれかが池田さんのものであったことを確信し、しばらく凍りついたまま言葉も出なかった。

 だが、とりあえず昼食をとり、その後対策を練ることにした。そして、結局、池田さん宅に電話をかけ、善郎さんにあざなのことについて知っているかどうかを尋ねることに決めた。幸いにも管理人室に公衆電話があり、電話帳も備えてあったので首尾よく善郎さんと話をすることができた。すでに帰宅していた善郎さんは、息子さんから我々のことを聞いており、休憩中であるのにも拘わらず、すぐに来てくれるとのことだった。間もなく善郎さんは小型トラックに乗ってやって来た(確かにあの時すれ違った車であった)。身長およそ155cm、体重70s、ランニングシャツに身を包み、髪は若々しく立てており、温かな雰囲気を持つたくましい人であった。我々は自己紹介をし、この調査の趣旨を説明した。善郎さんは快く調査に協力してくれた。こうして、調査は1250分頃、バスを降りて2時間を経て、ついに始まった。

善郎さんは地図を読める人で、小字の地図と5,000分の1の地図を見比べながら、あざなを教えてくれ、明確にその位置を示してくれた。以下はその一覧である。

 

村の名前

あざな一覧

菅牟田村

田畑

小字風連のうちに

ムカエノ

小字岩野のうちに

ホシバ

小字常全谷のうちに

サカナカ

小字黒龍のうちに

キツネイワ、コクリュウ

 

 

小字江舟のうちに

カンユブネ(観ユブネ)

小字杉谷のうちに

スズムキ

小字西山のうちに

ニシノマタ

ほか

沢竜下溜のことを シラキノため という

岩野溜のことを 新だめ という

前田清一さん宅のことを シイノキの下 という

※注 ・表にない小字は特にあざなはなく、小字の名前をそのまま呼ぶ。

   ・菅牟田村には堀や川・橋がなく、また、谷・山・道などには特にあざなはない。

 

タンナカについての調査が終わった後、善郎さんは水利についても教えてくれた。菅牟田村の水田の水源は岩野溜であり(昭和初期に新しく作られたため、新だめと呼ばれている)、その南東にある谷を通る川からポンプで水を汲み上げているので、この20年間は干ばつのときも、ほとんど被害はなかったそうだ。菅牟田村にはこのほかにも沢竜下溜や黒龍溜があるが、この2つは菅牟田の南東に位置し、ここより少し低地にあたる山田村が管理しているそうだ。善郎さんはしきりに山田村は頭がいいということを強調していた・

善郎さんは菅牟田の昔についても教えてくれた。江戸時代、菅牟田は長崎の領土であり、伊万里との交流が盛んであったらしい。

続いて、我々は墓地公園に来る途中目にした広大なゴルフ場についても質問してみた。このゴルフ場は昭和63年頃に着工されたが、用地買収の際にも反対者はほとんどいなかったらしい。農場経営の悪化と借金返済のために手放さないわけにはいかなかったからだ。

また、昔は東京やその他の大都市に出稼ぎに出る人も多く、善郎さんもその1人であったという。専業農家は1つか2つしかなかったそうだ。

菅牟田村には、井上・池田・前田といった苗字が多かったので、屋号についても聞いてみたが、特別な屋号はないらしい。善郎さんの場合、相手の下の名前に「ちゃん」を付けて、「みーちゃん」、「たけっしゃん」というふうに呼んで区別しているそうだ。

菅原という小字にある田は昔は一等田であり、その値打ちは同じ菅牟田の杉谷や江舟といったところの田の2倍にものぼるという。

また、菅牟田の祭りは、毎年春・夏・秋に行われ、夏の祭りは「夏ぎと」と呼ばれ、田植えの後に行われていた。秋のお祭りは「おこもり」と「おひまち」の2つがあり、後者の祭りでは餅つきを行うそうだ。

最後に菅牟田村と他の村との境界線を教えてもらったのだが(地図の中の赤い線)〔添付地図省略〕、その境は田と田の間を通っていたり、山を通っていたり、あるいはゴルフ場の中を通っていたりと、意外にも道路や水路を境としているのではなかった。

ここで、話の中に出てきた小さな情報を箇条書きにしておく。

・正月18日には、今でも観音祭りという行事がある。

・高い位置にある土地のことを「ツジ」という。

・地形は昔とほとんど変化がない

・菅牟田は、唐津市がまだ村と呼ばれていた頃からあった。

 

調査が終わると、善郎さんは我々を竹木場の小学校近くまで車で送ってくれた。トラックの荷台から眺める菅牟田は緑が一面に広がっており、ときおり吹く風がとても心地良かった。我々は別れ際に善郎さんにお礼を言い、住所を教えてもらった後、ゆっくりと帰路についた。



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