【唐津市梶原】

梶原現地レポート

歴史と異文化理解Aレポート

1LT97007 安德万貴子

1LT97009 石井 淳子

調査に協力して下さった方:藤田常磐さん(昭和5年生まれ)

 

梶原

しこ名一覧

田畑

小字:五郎丸

aキソエ(木曽枝),

bオオゼマチ(大畝町)※畝町=田の事。広い田という意味。

鎌牟田

cコネッタ

祭礼口

dタテダ

(ほか)中江(なかえ)

eセンギダ,fオチコ

「センギダは難儀だ」とよく言ったそうである。

沖田

オキタ(沖田)

高柳

タカヤギ(高柳)

御燈谷と

明泉寺の辺り

マエダ(前田)※家の前の田という意味。梶原では田が住居から離れているため「前田」とは呼ばない所が多い。

しいど

水路が通っている場所の小字名で呼んでいるそうだ。

鎌牟田・室ノ前・祭礼口・

目指の接している所

3シンカワバシ(新川橋)

五郎丸

4ゴロウマルバシ(五郎丸橋)

沖田・高柳の間

1オチアイバシ(落合橋)

井樋

沖田・高柳の境

オチアイイセキ(落合井せき) 地図の1

外中江・祭礼口の境

イシドダ(石土田、石土台?) 地図の2

室ノ前

ナガノマエイセキ(長の前井せき)地図の3

鎌牟田

カマムタイセキ(鎌牟田井せき) 地図の4

祭礼口

タテダイセキ 地図の5

ほり

御燈谷

シモノタメ(下の溜)10アール

        ※溜=ほりのこと。

 

・梶原では焼き畑は行われない。

 

*村のしゅうじ(小路)

 小路は計6つある。地図に○で区分した部分と残り2つを図示すると下の様になる。

図アリ(図は省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)

 

*屋号

 分かり易いように住宅地図に赤字で記す。

梶原

五郎丸

トイボシ(トイ星)→なまると「テイボシ」:永田文一さん

カミ(上):藤田常磐さん

ケンモト:永田晴男さん

鎌牟田

ニシ(西):菊池武徳さん

地図アリ(地図は省略:地図は佐賀県立図書館所蔵)

 

*村の水利について

 半田川・新川から引水している。

 半田川の井せきは変わらないが、新川では圃場整備と同時に河川改修して井せきは殆ど残っていない。

  新川→川沿いの南北の田へ

  半田川→外中江・沖田・高柳

(半田と水を共有している)

◎梶原・宇木・半田の間には水利に関する農作業協定がある。

  (注:井せきのための井手板の修理や入れ替えを井手番が管理する。その費用や井手番への報酬を会計年度に明らかにし、田の面積に応じて分割して払う。(1231日))

※井せきの仕組み

 竹のくい ささ付きの竹を編み、ごみを取り除き川の水を清浄にした。

図アリ(図は省略:入力者)

 以前は、こうして約半分の量の水をせき止めることで水面が上昇し、水を田に流せた。

 大正~昭和以降は、コンクリートのくい(高さ1m)と板でほぼ完全にせき止めている。

図アリ(図は省略:入力者)

 水量が増してくるとあふれて下流へ流れる、という仕組みになっている。

・主に半田と梶原の間に部落単位の水げんかがある。取水権に関する問題である。水量が多ければ井せきを設けても水はあふれて平等に得られるが、少量だと上流が有利になる。

 (特に最近は山林の保水力弱化のため、川の水が減っている。開発によって人工樹林(スギ・ヒノキ)が増えているが、これらは自然樹林よりも保水力が弱く、落ち葉が少ないため土質変化も少ないなどの問題がある。)

「井せきを下げて水をまわせ」というのが下流地方の主張だ。何故なら水は水路の上流から順に取っていくものだからである。部落内でも、梶原では原則として上流から取る。(他の部落では上流からか下流からか決めることもある。)しかし川にも傾斜があるのに従って、たとえ平地でも、いわば棚田のような構造があるため、上流から取水していく方が効率的である。

図アリ(図は省略:入力者)

「水げんか」の補足

図アリ(図は省略:入力者)

夜、下流の人は上流の人の水の入口をせき止めて自分の所へ多く流れる様にしたりした。

◎三年前の大旱魃について

 人工樹林は枯れもしたが、水稲は最低限の収穫はあったので、特に対策はしなかった。又、下流の久里も松浦川から引水して、心配はなかった。

 もし40年前だったなら……井せきを作る技術の差で旱魃の影響は大きく違っていただろう。今の井せきは昔に比べて格段良い。まず鉄板(厚さ3~4m)を用いている。

図アリ(図は省略:入力者)

 エンジンの動力で油圧を使って倒して入水させる。

 

*村の範囲

 境界=字界(ゆざかい・あざかい)と言っている。鏡には{山添・高畑・松南・町・辻・梶原・今村・田中・虹町}があって、境界は昔から何となくしかない。しいて言えば、地図に図示した通りである。山沿いの住宅地と、そこに住む人達が耕作に赴く田(五郎丸・鎌牟田・祭礼口・外中江・高柳・沖田・火の口・長の前・室ノ前・中牟田・目指)を含む領域が「梶原」である。

(注:cf.地名の呼び方 「東松浦郡鏡村大梶原~番地」)

 

*村の耕地

 湿田は火の口・室ノ前・五郎丸の内の山沿いに分布している。湿田は人工のものでなく、自然にできたものである。それを乾田化するには、山沿いに排水路を設けて、そこに地下水が流出するようにする。

図アリ(図は省略:入力者)

 しかし、大雨の土砂で川底が上がったりすると、水が漏水となって田に入るので、完全な乾田というのはない。

図アリ(図は省略:入力者)

 大雨で水面が上昇して田より高くなると漏水の影響が起きる。

◦収穫は10アール当たり年平均300㎏(5俵)。良田と悪田では60(1俵)~90㎏の差がある。

良田:360㎏くらい / 悪田:250㎏くらい

◦戦前の肥料…馬屋(まや)()(こえ)

 耕作用の役馬・役牛の馬屋に敷いたわら(わら小積み)に便が含まれてくると、その厩肥を堆肥として用いた。

 

*入り会い山

 鏡の入り会い山は小字区分で言うと、前平・前山・大木場の領域を指す。

 鏡山は旧称で「火の山」と言った。

 小字の「火の口」は「火の山への入り口」という意味。山への参拝の代わりに、人々は「御燈谷」へ赴いたと言う。

 山には、梶原では棚田でなく(みの)()がある。蓑は人一人の体を覆うくらい小さいものであることから、稲15~20本を植える1くらいの小さい田をこう呼んでいる。

 

*村の道

 昔、隣村へ行く時通った道は、幅2~3mの村道で、以後広く改修されて、現在の市道の位置と同じである。

 その他、幅1mくらいの里道(地図に―で記す)があった。これは山ぎわの狭い近道で、学校道としても使われた。合わせて、山の中の道を山道(()(みち))と言って、牛馬・リヤカーで作物・薪・草を運んだ。

 

*祭祀

 特別なお祭りはない。組(しゅうじ)ごとに年に一度、天満宮(天神様)を拝んで、花見も兼ねて皆で飲食する。ただし、是正は大宰府に寄与され、以来その支配下にあるので、大宰府へ参拝する。

 はっさくの節句には、鏡神社から梶原へ山竿を担ぐ。

 

*日本農業の展望

 機械化で労力が減り、品種改良で反当り540㎏くらいまで収穫が増えた。600㎏の販売高は16万になるが、機械維持費や肥料、水利費などで、その半分を費やさねばならない。

 又、昭和4~8年の耕地整理で一区画約30アールにまで拡大された。機械の効率を上げるためとは言え、一馬力当りの面積が日本では狭いため割に合わず、機械への過剰投資が問題になっている。共同機械として用いたり、ビニールハウスで多角経営を図っているが、将来の見通しは立てにくい、というのが現状だ。

 政治の面でも、小麦などは輸入した方が商人の利益が大きいので、減反が進められているが、近日の諫早湾干拓などは何のためか?自給率の極低い日本で、災時に備えての農地確保ではないか、と思う。

 何事にも、本音を出すことが必要とされていると思う。

 

 以上、お話し頂いた内容をまとめたものである。

 

<行動記録>

1030 現地到着

1045 藤田さん宅へ到着

    お話を伺う

100~200 昼食・メモや残りの質問を整理

200~310 お話を伺う

310~320 車で周囲を見学させてくれた

320 バス乗車→学校へ



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