【唐津市石志】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LT97097 徳留 佳乃 1LT97103 中村 友美
調査日:1997年7月6日(日曜日) 話者: 進藤 忠幸さん 田代 正敏さん (大正13年生まれ) 太田 重利さん (明治44年生まれ)
午前10時20分頃に少し迷ったが、進藤忠幸さんのお宅に到着することができた。約束の時間が午前11時だったために、進藤さんは20分後に帰宅された。早速しこ名について尋ねたが、詳しい事はわからないということで、近くに住んでいらっしゃる古老の太田重利さんのお宅に伺った。今回調査を行った方の中で最年長であったが、そこでもよくわからないと言われてしまったので、進藤さんにもう1人の古老・田代正敏さんのお宅に連れて行ってもらった。そこでようやく田代さんと進藤さんに、質問に答えていただくことができた。 まず、田んなかのしこ名ついて尋ねたが、役場で調べてあるプリントの名前をそのまま使っている(最年長の明治44年生まれの太田さんもそうおっしゃっていたのだが)、ということでしこ名は1つも聞くことができなかった。尋ねることが出来た事項を以下にまとめて書いておく。
●村の水利と水利慣行 石志村の水田にかかる水は、徳須恵川からポンプの汲み上げ(注1)により引かれている水と、牛頭溜池・浦溜池・小森溜・高崎溜の4つのため池から引かれている水とでまかなわれている。そしてその水は石志村単独の用水となっている。また水の配分に関しては、水番と呼ばれる人が管理している。水番は、以前は村内で選挙を行って決めていたそうであるが、現在では村人たちが適任者であると思う人物に委託し、給料を支払っているとのことである。また、今は水番に統括されてしまったが、機械を管理する機械番もあった。水利慣行としては、堤の水を勝手に使うことはできないということである。
●焼き畑 焼き畑は行われておらず切り野もないが、山の中の見つからないような所に、税の取り立てを免れるための測量していない隠し田があった。
●屋号 屋号はタバコ屋や油屋など平凡なものから、調査した田代さんのお宅は有秋館(ユウシュウカン)という名のものまであった。
●村の範囲 村の範囲は別地図にある通りだが、千々賀村との間に千石橋と呼ばれる橋がある。
●村の耕地 石志の水田の良し悪しについてだが、新開という田がすぐ水に浸かってしまい大変なようである。 肥料について以前は人糞を使用していたが、現在では堆肥や牛馬の糞を使用するようだ。
●村の生活に必要な土地 入り会い山(村の共有の山林)はあった。別地図に記録。
●村の道 山本、千々賀、大杉に行く道があった。「○○ノウテ」と呼ばれる道はなかったが、堤の水の流れ、配水路の事をウテと呼んでいるらしい。
●祭祀 石志村の八坂神社の氏神は祇園牛頭天王と言う。また祭りについては、現在ではもうないが12月6日に石志くんちと呼ばれる祭りがあった。そして夏には夏祈祷と呼ばれるものもあり、火の上を歩き夏の流行病が起こらないようにと祈願するものである。さらにはお伊勢こうと言うお宮参りもあるそうだ。そしてそのお宮参りの後には同伴寄りあいと言う懇親会があり、ここでは男女別に同世代の人々が集まるそうである。 また、今ではなくなってしまったが、石志には伝明寺と言う寺があり、この寺は朝鮮征伐の時、戦病死者を葬るため従軍していた僧の居所となっていた。
●1994年の大旱魃 伊万里はひどかったらしいが、この村には大した被害はなかったらしい。なぜならこの地方では、海水からの水と松浦川からの水が合流してしまうのを防ぐために塩どめを行うため、松浦川からの水と2つのダムからの水が十分に水田に行き渡るためである。しかし、昭和42年の水不足では塩どめがなかったため被害大きかったそうだ。 ((注1)についての図アリ・原本は佐賀県立図書館所蔵)
田代さんの亡くなったお父さんが細かく石志について記述したノート(らしきもの?)が残っており、それを見せていただいた。また田代さんのお宅にはたくさんの歴史的資料があり、朝鮮通信便の記録や名護屋城の瓦など貴重なものを見ることができた。 質問は午後1時過ぎに終わり、山ももをお土産として頂いて帰った。 |