【唐津市東山】

76日の佐賀現地(東山)調査に関するレポート

 

1LT97013 伊勢裕基、1LT97049 河邊隆寛 

 

 

<話者>

徳田三次さん(74才)

 

<一日の行動記録>

830   六本松出発

1040頃  竹木場小学校前到着

1110   東山到着  小野さん宅訪問、不在

定松さん宅訪問、断られる

佐野さん宅訪問、公民館へ行けと言われる

1130   公民館到着 婦人会の方々に話を伺う

1150   高橋さん宅訪問、不在

      畑迫さん宅訪問、不在

      宮城さん宅訪問、不在

      松本さん宅訪問、不在

      三原さん宅訪問、不在

      小畑さん宅訪問、話を伺ったが、詳しくは知らなかった

      小森さん宅訪問、園田さん宅へ行けと言われる

      徳田さん宅訪問、話を伺う(開拓当初の話)

      園田さん宅訪問、不在

(当日は学校で行事があっており、村の人達はほとんど出かけていた。学校にも行ってみたが、行事は終わっていて、入れ違いになった)

1230   昼食

1300   井上さん宅訪問、仕事中で話を伺うことはできなかった

1310   大日如来像に到着

1330   調査終了、竹木場小学校へ向かう

1530   バス乗車

1740   六本松到着

 

 

<村の歴史について>

 東山は、昔からある周辺の村々とは違って、第二次世界大戦後に朝鮮や満州からの引き揚げ者達によって開拓された村である。

その概要は

S21  開拓入植(縫成、椿谷、楠谷、古賀峰)

     切木村の東方の山の意味から、「東山」と命名

S29  電気導入

S33  唐津市に合併

S38  有線放送

S44  農業電話

S53  市水道

といったものである。

昭和21年当時、開拓にたずさわった人々は、元は南満州鉄道株式会社の人や、都会から疎開してきた人々、また、食糧難で来た人々がほとんどであり、農業をやったことがなく、百姓をできずに出ていった人が多かった。その開拓途中の土地を次の人が買い取るということが何度かくり返された後で、今住んでいる人々が定着したそうである。このため、戦前から東山に住んでいる家は園田さんの家しかなく、村の人々から、「あそこに行けば、いろいろ知っとんしゃあよ」と言われ訪ねたが、あいにく不在であったため、江戸時代や戦前のことについて詳しく知ることはできなかった。

 

 

<タンナカのしこ名>

 東山は、山を切り開いた土地であるため、水田は少なく、ほとんどは畑であった。田畑も戦後に開拓されたものであるため、きれいに整備されており、その歴史も50年程であるため、村の人に聞いても「しこ名」はないということであった。

 

 

<村の水利について>

 村には「縫城溜(ヌイシロダマリ)」と「雨溜(アマダマリ)」というため池があり、水田に使う水は両方の池からひいていたそうである。しかし、今は「両溜」は埋め立てられており、バス停にその名をとどめるのみであった。

 昭和53年に市水道がひかれるまでは、生活用水は井戸水だったそうであり、また農業用水についても(江戸時代はほとんど田畑がなかったので)、他の村との争いなどはなかったものと思われる。

 

 

<路傍の石佛>

 村の中に江戸時代から残る、数少ない資料である。

 大日如来と地蔵菩薩がある。唐の川や竹木場の集落の外側周辺には、牛馬の死体を埋葬したのだが、妖邪のたたりを鎮めるために建立された。村では年に一度お祭りがあるそうだが、ここにお参りをした後に皆で宴会をするというものである(石佛に記してあった文を写した)。

 

    

 

(概訳)

 古老の話によれば、この地に妖怪がおつて、ここを通る牛馬がこの妖気にふれると原因不明でたおれ、死んでしまう。これは、妖怪の仕業であろうと思われる。近頃は、そういう牛馬が増えており、村民はここを通るのが恐ろしくなり、仕事も手につかなくなった。村人は、なんとかして妖怪の心を鎮め、祟りをのぞこうとした。そこで弘化二年(一八四五年)きのとみの年(乙巳の年)の春、村人達が相談して、大日如来の石像をたて、これに香華をそなえて、供養し、祈祷することになった。石仏に魂を入れたのは坐河内(そぞろがわち)の興福寺の住職の国成師である。

           伊藤三平次仲談

 

 

 

<村のこれからについて>

 開拓が意欲的に進められた過去と違い、現在では村の様子も変わりつつある。出かせぎに行って、定年となって村に戻ってきて、牛を飼育している徳田三次さん(74才)の話によると、今の若い世代は村の中に残って生活するような人はいなくて、ほとんどが都市部へ働きに出て、月給どりになって、生計を立てているそうだ。村には老人ばかりが残っており、後継者はいないということが、顕著に村の未来を物語っており、村の人の不安はかくせない。

 徳田さんもS29年に入植してきた“あとから来た人達”のうちの1人である。百姓をするだけでは生活することもできなくて、このままではやっていけないということで、牛をはじめたそうだ。オーストラリア産のエサを食べていた牛も、どこかしら元気がなかった。

 全体的に見て、村そのものに活気というものが感じられなかったような気がする。“私はよくわからないからねえ”というのが、ほとんどの人達の答えであった。その日、村では、竹木場の小学校で球技大会があり、子供達が元気な姿で楽しんでいた。将来はこのような若い世代が村を支えていく活力、明日への活力になっていかなければならないと感じた。



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