【唐津市東宇木】

佐賀現地調査レポート

1LA97205 濱口崇

1LA97207 林 誠

◦ 聞き取りをした方の名前:脇山 巽さん

       〃   生まれた年:大正13年

村の名前

しこ名一覧

東宇木

田畑

小字鶴崎のうちに

ツルバタケ(鶴畑)

ジュウロク(十六)

小字迫頭のうちに

カイナガシ

小字釜太郎のうちに

イチョウマル

小字カヲカ(コウコ)迫のうちに

ムカエバタケ(向畑)

小字空ノ木のうちに

ドウヤマ(銅山)

小字日門作のうちに

キョウノヤマ(経ノ山)

小字カヲカ迫のうちに

ニシノタニ(西ノ谷)

小字大谷のうちに

オタキダニ(御滝谷)

マルオ(丸尾)

ヤナギタニ(柳谷)

水路

小字日門作のうちに

オカネガシタ

その他

小字釜太郎のうちに

ウマステバ(馬捨場)

上記の脇山さんに聞いた後2人の方に聞いてみたが、昔からほとんど小字で呼んでいたということだった。たとえば田植えをするときでも「○○の田に植える」の○○は今の小字がほとんどだったらしい。また脇山さんは「この辺りは昔の地名でほとんど小字になった」とおっしゃっていたので、ほぼ小字と呼名が重なっているのだろう。

 

◦ 小路・屋号について

 東宇木はその中で集落ごとに5つにわけて呼ばれていた。

  ◦ 小字一本松の大部分…ハシロテグミ(橋呂手組)

  ◦ 小字一本松の一部分と小字原田・小字八ノ坪…タンキグミ(谷清組)

  ◦ 小字日門作の半分と小字原田の一部分…ヤシキグミ(屋敷組)

  ◦ 小字日門作の半分と小字原田の一部分…ムカエグミ(向組)

  ◦ 小字大谷…テラシタグミ(寺下組)

 また地元の人々の間では、いくつかの家を屋号で呼んでいる。地図に載せるには多いのでまとめてみる。

  @地名や特徴に基づいた屋号

・シタバシ(下橋)・シミズノモト(清水ノ源)

・イチョウマル・タンキバル(谷清原)・タニキヨ(谷清)

・タカミ(高見)・テランシタ(寺ン下)・ウランタニ(裏谷)

  A以前の職業に基づいた屋号

    ・コウジヤ(こうじ屋)・タバコヤ・カジヤ

    ・オケヤ(桶屋)

  B並んでいる家の屋号

    ・シンヤ・ナカンイエ

          ※東宇木にそれぞれ3つほどこの屋号はあつた。

 同じ名字の家が多いこともあって屋号を聞いてみると、たくさん教えてもらった。また、イチョウマルについては、以前舟が入ってきていたためそのあたりをしこ名として呼び、舟つき場だった家の屋号にもなったらしい。

 

◦ 焼畑・切野(キイノ)の有無、そこを何と呼んだか、誰の土地で何を育てたか

戦前に焼畑・切野は存在しなかった。戦前、山は雑木林で経済的利用は全くしておらず、その後は主に果樹(みかん)栽培が中心となっている。

 

◦ 水田にかかる水はどこから引水されているか

ため池より引水。

山に降った雨が日門作(ヒモンサク)溜に溜まり、昔はそこから直接引水していた。不足時は宇木川から東に水をまわし、宇木下の井戸あげ(現宇木小学校付近)で水をせき止めて流していた。しかし昭和14〜16年で新しく迫頭(サコガシラ)溜の工事をし、日門作溜から迫頭溜に水がいくようにし、より引水は便利になった。

 

◦ 水は何という井手、井堰(井樋・いかり)から取り入れるのか

特別な名称はついておらず、山に降った雨が各家庭の井戸へいき、それを取っていた。

 

◦ 用水は村の単独だったのか、他村と共有していたのか

単独用水として利用。

 

◦ 用水の配分に関して特別のルールはあったか。

宇木川の水を井手あげでせき止めて流す場合は、宇木全体で話し合いをもっていた。また有給で水当番を雇い、不平等にならないように管理させていた。

 

◦ 過去に水争いはあったか

宇木地区は水が豊富な所として有名なので特別に争う必要はなかった。

 

◦ 1994年(3年前)の大旱魃の水対策について(時間給水、犠牲田など)

大旱魃の影響は殆ど見られなかった。理由として東宇木地区は水が豊富で有名な地(江戸時代、そのおかげで幕府の直轄地=天領だったほど)なので、井戸水もほとんど減少することはなかった。

 

◦ もし大旱魃が40年前だったらどうなっていたか

今も昔も東宇木の水の豊富さは変わらないので、40年前でも殆ど影響はなかっただろう。

 

◦ 圃場整備以前にとくに米がよくとれたところ、余りとれなかったところ

とれたところ…万徳 江戸時代天領だったが、あまりにも米がとれるので唐津藩から人夫がきていたほどだった。

とれなかったところ…次郎丸(主に砂地だった)

          鶴崎(主に粘土だった)

          迫頭(主にムタクソ=葦が腐って土にかえったもの)

 

◦ 戦前、化学肥料が入る前は反当何俵だったか

6俵〜8俵

 

◦ 良い田と悪い田の差は何俵だったか

2俵〜3俵

 

◦ 化学肥料が入ったあと農業はどう変化したか

反当8俵〜10俵に増えた。

化学肥料が入る前は草を刈って牛にやって堆肥にしていたので、村をあげて草刈りをしていたが、その必要はなくなった。

 

◦ 戦前には何を肥料にしていたか

堆肥

山の方の一部では草の堆肥である苅敷(カッチキただし東宇木地区ではカシキ)を使っていた。

 

◦ 入り会い山(村の共有の山林)はあったか

あったが戦後個人分けがされた。

 

◦ 昔の隣の村に行く道、学校道、「○○ノウテ(縄手)」と呼ばれる道はあったか

道に名前は存在しない。

 

◦ 何神社の氏子か

宮地嶽神社(万徳に昔あった宝満神社も吸収した)

 

◦ どんな祭りがあるか

宮地嶽神社の祭り、4/19くんち

 

◦ 村の姿と将来について

「わらぶきの家がない・道路が整備された等の変化はあるが、将来これ以上は変わらないだろう」という意見が圧倒的だった。

 

◦ 日本の農業への展望について

百姓は日本から消えていくだろう。

小さな農家を吸収し大きくなるか、農業を手放すかの2つに1つの選択にせまられている。

自分の農地は手放さずに、小作人を雇ってわずかの小作料を得る人も増えている。

ハイテク化された機械の維持が大変である。

米の自由化に関しても特別な危機感はない。(日本人は日本米が好きなので自由化しても影響は少ないから―オレンジの輸入自由化もみかんへの影響が少ないことが証明)

 

◦ 古道をどんなものが運ばれていたか

木材・まき・すみ・蚕(桑原)

 

現地調査の行動記録

A.M 11:15 バス下車

その後45分かけて目的地の東宇木まで歩いた。

A.M12:00 目的地着

脇山喜彦さんに電話で正午に来るようにいわれていたので、時間どおりに脇山家に行き、喜彦さんの父である巽さんに話を聞いた。

P.M1:50  脇山家出発

巽さんに詳しい話を聞くことができたが、より詳しい話を求めて鶴田博愛さんを紹介してもらい、鶴田家へ向かった。

P.M2:00  鶴田家着

鶴田博愛さんはミカン栽培農家ということもあって、山や谷等のしこ名に精通していたので、その方面の話を聞く。

P.M2:20  鶴田家出発

岡崎義考さんを紹介され、岡崎家を探す。

P.M2:25  岡崎家着

特に新しい情報は得られなかったが、佐賀大の生徒の遺跡発掘や村の歴史等の話を聞き、ためになった。後、義考さんの息子さんにも話を聞くが、息子さんは唐津市役所の郷土史の整理を担当する部署で働いており、市役所で昔のしこ名等の調査はして、記録しているので、市役所に行けと教官に伝えたがよいとアドバイスされた。

P.M3:00  岡崎家出発

バスの降車地点に戻る。

P.M3:40  バスの降車地点着

他の人たちの情報を聞き、情報交換をしあう。

P.M4:00  バス乗車、帰途

 

<現地調査の感想>

佐賀県唐津市東宇木を調査することで、今まで殆ど触れることのなかった農村と触れ合えて、良い経験がもてたと思う。道を歩いていると、全く知らない人なのにあいさつされたり、みかん農家の所ではみかんの差し入れをされたりと、農村の人々の温かさを感じとることが出来た。都市で育った我々としては、いささかの驚きとためらいも感じたが、次第に“古き良き日本”の姿の素晴らしさに感動し、農村における生活に対して一種の憧れをも抱いてしまった。しかし国際関係の情勢等を見ると、日本の農業の完全輸入自由化は、国際分業の理念からもおそらく避けられないものである。そんな中で日本の農業の崩壊のスピードもより加速していく可能性は大である。日本の農村も機械化などで様々な形態変化をおこしているが、農村の生活を豊かにしつつ、日本の農業を保護していく必要性は、国家レベルで論じていくべき問題となっている。日本の経済が行き詰まった時、農業が崩壊していたら日本はどうなるかということを考えると、日本の国益の為にも、そして日本人の伝統的文化と精神の根幹を保持していくためにも、日本の農業保護は真剣に取り組まれていくべきである。

<現地調査の考察>

先ず東宇木地区について第一に言えることは、この地区が他の地区とは比較にならないほど水に恵まれていることである。このことは江戸時代に宇木地方が唐津藩に所属せず、幕府直轄地になるほどの米どころだったという歴史的背景からみても明らかである。そのおかげで戦前・戦後を通して水不足はなく、特に昭和初頭の迫頭溜の工事後は1994年の大旱魃でも殆ど影響はなかった。よって隣村との水争い等もなく、平和な村であった。

第二に考察されることは「しこ名」と「小字」の関係である。現地の古老の話を聞く限りでは圃場整備前後で田畑の呼び名はあまり変わっていなかった。要するに「しこ名」=「小字」にしたケースが非常に多かったということだ。行政側としても田畑の名前を一方的に変えることは不可能で、村人が以前から呼んでいた名称をそのまま小字とした行政処置は楽に推測され、このことは数人の古老が証言してくれた。その結果として、「しこ名」は田畑・山・谷等を含めた15個ほどにとどまってしまった。また、橋や道のしこ名についての調査だが、大きな橋(落合橋など)には名称(ただししこ名ではない)があっても、小さな橋や道にわざわざ名称をつける必要性はなかったというのが事実であった。しかし、家のしこ名である屋号に関しては、ほぼ旧家には全部つけられており、屋号も @地名や特徴に基づいたもの A以前の職業に基づいたもの B並んでいる家に基づいたもの の3つに分類されることが分かった。農村では親族関係の人が集まっていたり、また明治時代に名字を農民がつける際に、皆で同じ名字にしたなどの背景があり、部落内に同じ名字をもつ者が非常に多いということが、屋号がつけられた理由であろう。

第三に、村の姿の変化と将来についてだが、確かに戦前と比較して村は様々な変化がおきている。それは肥料の変化や機械化だけにとどまらず、村の生活のかなり深い所まで浸透している。村の若者が減少し過疎化も着々と進んでいる。(宇木全地区で人口832人、世帯数168)機械の維持費だけでもかなりのコストがかかり、農業は割に合わない職業となっているのも事実である。そして、村の農業形態も変化した。昔は副業として養蚕もさかんだったが、化学繊維の台頭で桑原も姿を消してしまった。そんな中で農民の方々は、今後の生き残りをかけて様々な方法を取っているが、今後の農業の在り方に注目していきたい。



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