【唐津市後川内地区】

 

1LT97052 木原雄一、1LT97059 古賀裕也

 

 

<話者>

橋本峰雄さん 昭和二十三年生まれ

松本静雄さん 大正十二年生まれ

中山義光さん 大正十五年生まれ

 

1030頃 目的地に到着

 代表者 橋本峰雄さん宅を探すが、住宅地図には「本峰雄」と記載、仕方なくそこへ行く。すぐ発見。家の方に橋本さん宅であることを確認する。約束の11時迄、辺りを探査。

 

1100 峰雄さん帰宅

 しこ名調査の旨を伝えると、小字図を持ってきて下さったが、我々の持参したものと同じであった。

峰雄さんによると、後川内は圃場整備以前から、所有地を番号で呼ぶそうである。峰雄さんは住所番号と同じ1963をつけるようだ。次第に話すうち、我々の知りたい名は、峰雄さんは「アテ名(ナ)」と言われているようであることがわかったので、それを伺った。

そして、親切にも老人会の方々を紹介していただいた。

 

1150 公民館

 お食事中なので、約束をとって出直そうとしたが、暇な方がいらっしゃらないので、無礼を承知で調査の許可をいただいた。

上座に大正生まれの老爺四人、他 老婆六、七人程度。

沢山の古老のお話を聞けたのは幸運であった。

拝聴したアテ名・屋号などは、大体各人の差はなく、名称の由来や漢字についての信憑性は高いと思われる。   〜130

 

130230 昼食

 

240315 神社・石碑等調査   315 終了

 

○ 後川内は山あいの村で水田は少ない。棚田(千枚田)も見なかった。

従って、タンナカのしこ名は少なく、水路等も特になかった。

切野はあったか尋ねたが、聞いたことはないそうだ。

限られた時間であったが、小路・しこ名・屋号など、わかるものは、漢字や由来までできるだけ教えていただいた。しこ名は田の一枚一枚にはないが、調べれば数えきれないほど思い出すが、とても一日で教えるのは無理ということであった。惜しいことである。

 

 

<四人の古老に教えていただいたこと>

【後川内村の歴史】

  後川内は、以前キリゴ(切木)村と呼ばれていた地区のひとつで、他に、周りの梨川内などもまた切木村の一部であったという。

  そして、当時の山林の利用状況はというと、後川内の方々は山で働くときは、現在の肥前町の方の山林へ行かれていたそうである。

  また、そのころの肥前町までの遠い道のりは、

   現 後川内 → 現 梨川内 → 野高山南部 →現 肥前町

 という具合で、特に後川内と梨川内の境界である山間部を越えるための道は、後川内側をトロクロー(戸六郎)、梨川内側をトゴロー(戸五郎)と呼び習わしていて、現在も字名としては残っているようである。

  しかし、そういった切木としての生活は途絶えてしまうことになる。

昭和三十三年、当時は複雑な市町村を吸収・統合して整理しようという動きが起こっていたそうで、その運動の影響は佐賀にもあり、次のような吸収・分化がなされたようだ。

  ・南の切木村と入野村を母体に、肥前町

  ・有浦村と値賀(ちか)村、さらに切木村のうち、大坪・藤ノ平(ヒラ)・田代の半分を母体に、玄海町

  ・切木村の他の地域などを母体に、唐津町

  この動きの中で、切木村のうち、現 後川内地区は分村を余儀なくされ、現在の唐津市へと併合されたそうである。

  それに伴って、長い間の切木村の歴史は閉じ、愛用され続けていた戸五郎−戸六郎の山道も使われなくなり、我々の持参した地図にも記載されてはいなかった。

  近年行われた圃場整備について、古老達は今迄の呼び名が全部番号に変わるのは勿体ない、と嘆いておられた。

 

○ 切木村の利用山林は比較的自由だったらしいが、分村によって混乱が生じ、ヤマの仕事は無くなったという。

  村内の入会地について訊ねたところ、入会地はないということであった。

 

【古道について】

  横平字(あざ)にある現在の納骨堂の周囲は、アンノモト(庵ノ元)というしこ名で呼ばれている。古老の話では、以前、ここにアンデラ(庵寺)という寺院があったそうである。そして、この庵寺には唐津方面から僧侶が来ることもあり、唐津側の大通りから庵寺までの道のうち、後川内の高尾字(あざ)を貫く道をボウズミチ(坊主道)と呼んでいたそうだ。坊主道はハチロという屋号の橋本辰一さん宅の辺りを通っていたという。

 

【信仰について】

  後川内には二つの神社(大山祇〈オオヤマギ〉神社・稲荷神社)がある。

  また、その他に、今はないが、前出の庵寺、東の山中のブゼンボー(豊前坊)がある。

  これらについて訊ね、分かったことは次に示す通りである。

 ○大山祇神社

   大山祇神社は、手元の地図の各地に見られる。後で行ってみたら、円型の大きなしめなわが二つ、頼朝が朝日奈三郎・仁田四郎忠常・榛澤六郎成清と、富士(?)を背景に狩りをする錦絵が一枚見られた。神社の縁起を表すのだろうか。きれいに保存されていたが、一人名前がけずれていた。

   古老に神主さんに関することを尋ねたが、各地の大山祇神社は、玄海町の一人の神主さんが全て司っており、後川内にその家はない、ということであった。 

 ○稲荷神社

   明治生まれのお婆さんは、ここに太刀蔵(タチグラ)稲荷大明神が祀られていると言う。詳しくは「タチ」という屋号の由来で触れたい。

 ○ブゼンボー

   ブゼンボーには実際に行ってみた。今では、細い階段と祠が二基残るのみとなっていた。ブゼンボーは、全後川内の水稲耕作の神であり、年二回の祭りがあっていたということだ。

 

【最後に石碑等の碑文を見ておいた】

 ○木場谷字(あざ)納骨堂付近の石碑、右から

   「日露大戦紀年」、「征清紀年碑」(二つの大戦における村の戦没者碑)

   「里道開鑿紀年」(明33、協力者碑)、「農地開発記念」(平1、唐津市長 野副豊等)

 ○ブゼンボーの祠、右から

   「愛宕神社」、「明治四十四年」(愛宕神社による格付け)

 

 

橋本峰雄さん 昭和二十三年生まれ

松本静雄さん 大正十二年生まれ

中山義光さん 大正十五年生まれ

 

 

後川内

(ウシロガワチ)

(切木〈キリゴ〉村の一部)

田畑

小字松ノ川内に

ウトボシ、イケンマ、クレイシ、タラヌキ、カドイシワラ(角石原)

松ノ川内と

権十田の間に

ナガムタ(長牟田)

※松ノ川内は小字図では後川内の外だが、古老達はもとは後川内だったと言う(名場越川まで)

権十田に

ナキリ(名切)

高峰に

キリノ(桐野)

  門松に

ヤマナカ(山中)

  畑下毛に

トビ

  後田に

イヨガタニ(伊代ヶ谷)

  仲ノ谷に

ヤマイモダニ(山芋谷)

  山ノ田に

ウトギ

  横平に

アンノモト(庵ノ元)

  城遠(シロトオシ、昔はシロトボシ)

ヤナギダ(柳田)

小路

小字門松・高尾・畑下毛に  

シモノタニ(下ノ谷)

※このうち橋付近をカワシモ(川下)という

山ノ田に

ムカエダニ(向谷)

  後田に

ヤシキダニ(屋敷谷)

  木場谷に

コバノタニ(木場ノ谷)

カミノタニ(上ノ谷)

屋号

小字高尾に

オック(奥)

後田に

ウシロヤマ(後山)、タバタ(田畑)

  山ノ田に

ハチロ

木場谷に

フドサマ(不動様)、カゲ(蔭or陰)、ウエコバ(上木場)、タチ(太刀)※二軒ある、シタノコバ(下の木場)※二軒のタチの間、オック(奥)、ドウケン、カミダ(神田)、カワバタ(川端)

  横平に

ヨコヤマ(横山)

  御庭下に

ジュウソマツ※ジュソマツともいうようだ

古道

高尾・山ノ田を通り、唐津方面と横平の庵ノ元を結ぶ

ボウズミチ(坊主道)orアンノミチ(庵ノ道)

 

 ◎呼称の由来(わかるものを北から順に列する)

  ・カドイシワラ(角石原):大きなカドイシがある。

  ・ナガムタ(長牟田):湿地・沼地(=牟田)が広範囲にわたって存在した。

      ・イケンマ:死産した馬などを「イケた」らしいが、その意味と漢字は不明。《昔は死馬などを、なめし革に使ったようだが、それは聞かなかった》

      ・キリノ(桐野):《古老は何も仰らなかったが、丈高山の麓にあるので、切野があったのではないか。桐を植林していたかは不明》

      ・オック(奥):村の辺境にある。

      ・トビ:昔は、後川内川のこの部分は、しばしば氾濫するほどの川幅で、川の対岸の田地へ行くのに苦労したからではないかという。跳んで渡ったのだろうか。

      ・カワシモ(川下):後川内川の川下だから。

      ・アンノモト(庵元):元は庵寺という寺があった。

      ・タバタ(田畑):もとは田地があった。

      ・タチ(太刀):タチの上には太刀蔵稲荷大明神を祀る祠がある。そこへの参拝客に宿を提供していたので、太刀蔵稲荷から取った名である。

      ・ウエコバ・シタコバ(上木場・下木場):木場、谷の上と下にある。

      ・カゲ(蔭/影):影のような存在であった(←不明確)。《山蔭か、大木の蔭だったのかもしれない》

      ・ドウケン:この家に、昔、藪医者の坂本ドウケンなる人がいた。

      ・カワバタ(川端):川端にあるから。

      ・カミダ(神田):大山祇神社の供米を出していた。



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