現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/横田下
1LT97157■ 森上二三香
1LT97136■ 渕上由香利
聞き取りした方 横山達男さん 昭和10年生まれ
しこ名一覧(田畑)
村の名前
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小字名
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しこ名
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横田下
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干居
高虹
吉田
月岡(?)
大岩
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テンジンノウラ(天神の裏)
センギダ(千義田)コウマチ(耕町)スナダ(砂田)
ヨシダ、シモタジマ(下田島)
ヒラヅカ(平塚)
オオリャゴ(大荒後)
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浜崎
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長畝
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ヨコダ(横田)コッテシンガイ(男牛新開)
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・圃場整備前 「天神裏」が最も米がとれた → 粘土地だったから
「男牛新開」が最も米がとれなかった →砂地だったから
*特に「男牛新開」と「砂田」は秋落田(アキオチデン)と呼ばれていた。
(今頃(夏)はほかの田より見かけが良いが、秋には実りが少なかったから)反当6〜7俵
・現在はどの田の収穫高もあまり、差はない。反当8俵、多い時で10俵
〈二毛作はできたのか〉
公民館前の道路(バス通り)から北は湿田、南は乾田で二毛作ができた。おもに麦と菜種が裏作。北の方は土地が低く、海水が入ってきたためである。そのため、冬には馬車で「泥引き」をするのが、農家の仕事だったそうだ。
〈肥料〉
戦前、S20前の肥料は山のかや(カッシキ)を用いていた。現在はほとんど化学肥料。
〈入会山について〉
入り会い山=村山。場所は十坊山と渕上(フツノウエ)の中間ぐらい。
S23頃の農地解放後、ほとんど強制的に未墾地買収された。
ただし、北の方のほかの部落の入り会い山は、土地がやせているため、この時も買収はされなかたそうだ。
〈用水〉
昔は、トウジンガワイゼキ(唐人川井堰)
アリソイセキ(有祖井堰)から
現在、S47頃から七山から引水している。干魃などはなかった。
〈水利争いについて〉
水利争い=水ゲンカ。夜中に川上の田の水を、川下の田の人がこっそり自分の田にかけ、けんかが起こった。
現在80代以上の人が現役の時の水げんかでは、けが人も出たらしい。
〈水利の取り決めについて〉
ほとんど口約束。上から順番に水をとる、など。
〈祭祀〉
・近所の天満宮の氏子。S52,53ぐらいまでは11月27日に祭りが行われており、お神輿などもかつがれていた。
・横田下のあたりでは、昔から家に神棚などはほとんど置かないそうだ。
〈村の変化〉
戸数が3倍になった。
〈1日の行動記録〉
・私たちは、現区長さんの住所が分からず、手紙を出さないまま現地へ行ったので、外で働いている50代ぐらいの女性にまず声をかけた。すぐそこの家に、90代ぐらいのおばあさんがいると教えてもらい、早速その家に行った。家の横のビニールハウスで作業している60代の夫婦の奥さんに尋ねると、今日は温泉に行っているとのことだった。落胆した私たちは今回の趣旨を話し、古老を紹介してもらえないか頼んだ。すると、奥さんは「土地のことならうちの主人が知っているかも」とご主人を呼んでくれた。なんと、ご主人は元区長さんだった。喜ぶ私たちをご夫婦は玄関のところに上げてくれた。
・早速地図を拡げ、「しこ名というものをご存知ですか。」と尋ねると、すぐに主旨を理解して下さり、次々と教えてくださった。昭和生まれの方だったが、かなり、色々なことを知っておられ、また、記憶力も抜群だった。突然訪ねて行った見ず知らずの私たちに、アイスコーヒーやメロンまでも出して下さり、心良く答えてくださった横山さんご夫妻に感謝したい。また、横山さんはしこ名を答えながら、「どんどん忘れていきよう」と嘆かれていたが、だからこそ、こうして今のうちに記録を残しておくことが重要なのだと今回の現地調査の意義を初めて理解した。