現地調査レポート/佐賀県/浜玉町/柳瀬

 

1SC95009■  樫山修

1LA97104■  児玉亮一

 

しこ名について

浜玉町柳瀬

 田(今は畑) 

小字大谷乙のうちに ウノクビ

小字灰久保のうちに トオリヤナギ(通柳)・ウメンサコ(梅んさこ)

小字柳瀬のうちに  ウッダ・シマダ

 

・現在、この地区には田んぼがほとんど残っておらず、大部分が畑になっていて、その中でもみかん畑が多い。なんでも、過去にみかんのブームがあったらしく、その時に田んぼをみかん畑に切り替えたという。昔は田んぼがほとんどであった。

 

入会地(村の共有の山野地)について

・このあたりの農家は個々に山林を持っていて、そこから燃料となる薪の切り出しなどを行ったという。今回お話をうかがった加茂さんの場合は、浜玉町にではなく七山村に山林を持っていらっしゃって、昔は燃料の切り出しのためにわざわざ玉島川をわたり、七山村までしばしば行ったという。少し話がそれるが、木の切り出しには現在のようにチェーンソーといった便利なものはなく、全て、のこぎりを使って大変苦労なさったという。薪は切ったら即使うのではなく、約半年も寝かして乾かしたという。当然といえば当然かもしれないが、やはり驚いた。

 

水の利用について

・農業用水については、近くの玉島川から水を引き、山手では谷の水を引いてきて利用している。飲料水については、昔は井戸を掘り、その水を共有していた。加茂さんのお宅では、4軒の家で共有していたという。夏になると井戸の水が少なくなることもあり、その時には谷の水を飲料水にしたが、水が濁っているので木の桶に木炭をいれ、それを使い水をこしてから飲料水にしたという。現状では、蛇口をひねりさえすると水が出るので、当時の水を手に入れる苦労がうかがえる。

 

平成大渇水(1994)について

・私たちが予想していたのとは逆の答えが返ってきた。山手のみかん畑こそ、谷の水を溜めた山の上の方にあるタンクが使えなくなったそうで、玉島川から水をポンプで汲み上げてその水をトラックで山手のみかん畑まで運んで大変だったそうだが、概して玉島川の水を利用することができたので、みかん畑に被害はなかったという。逆に好天続きで、みかんの糖度が増したとのこと。水田も数少ないながらあったが、そこでも被害はなかったという。

 

裏作について

・このあたりでは裏作も行っていたようで、どこの田でも冬には麦を作ったという。肥料には下肥を使ったそうで、加茂さんは昔、下肥をしばしばまきに朝早く行ったそうである。何故朝早くまきに行くのかというと、加茂さんによれば、なんでも、朝早く行かないとつるつる滑るからだそうである。ちょっとこの点は意味を理解できず、もっと突っ込んで聞けばよかったと後悔している。

 

今回、お話をうかがった方:加茂静夫さん 1920(大正9)年生まれ

 

佐賀現地調査を振り返って

 そもそも佐賀現地調査をすることが分かったのが6月上旬の授業でのことだった。5月にもこの授業で、福岡城址や鴻臚館を歩いて回っており、服部先生はほかの先生とはちょっと違うぞ、と思っていただけに、今度は何をするつもりだ、と佐賀の件を聞いて思った。(ちなみに、5月城址などを歩いて回ったのは少し失敗だったのではと思う。授業クラスを2つに分け、また拡声器を用いていたが、やはり先生から離れていては説明を聞き取りづらかった。人数的に無理があったのではないか。試み自体は大いに価値があると思う)

 話はもとに戻る。今回の調査では現地の方にお話を伺う、という私(児玉)にとって最も苦手な分野であることが判明した。私はもともと消極的でこういうことには全く自信がない。

 まず、割り当てられた地域の区長さんに手紙をだし、アポイントを取らなければならない。手紙など年賀状(果たして手紙と言えるか)ぐらいしか書いたことのない私は、当然、手紙の書き方のいろはなど知る由もなく、まして全く面識のない目上の方に手紙を出すというのだから大いに心配ではあったが、マニュアルを参考に書いた。2日後に、わざわざ先方から電話があり、どうにか訪問の交渉が成立した。この時に聞いた、先方の声にはほとんど訛りはなく、マニュアルを見て、佐賀弁の心配をしていただけに、安心した。

  その後、本来調査に行く予定であった日に台風が直撃し延期を余儀なくされるということもあり、712()にようやく調査に行くことになった。その間担当の準備期間があったにもかかわらず事前学習といえば、マニュアルを読むということしかしなかったので、今、本当に後悔している。私は広島県人で、佐賀のことなどわかるはずもないのに。

 6月の空梅雨・猛暑の傾向から一転して7月に入ると、豪雨・低温になり、多いところでは1週間で雨量が1000ミリを越えたり、土石流が起こって20名余りもの命が失われたりするなどしてこの状態で本当に調査に行けるのかと心配していたものの、当日の天気は大雨・洪水警報が依然として発令されてはいたが、雨は小雨程度で予定通り佐賀へ向けて出発という運びとなった。

 途中、「おさかな村」というところで休憩をとった。入口で出迎えの人が立っているのを見ると高速道路のサービスエリアとなんら変わりはなく、また魚といってもスーパーで見かけるようにマグロの切り身が並べてあったりと、とりたてて興味を引くようなものはなかった。

 1020分、ついに私たち二人は現地に降り立った。周囲に民家は点々としかなく、山がすぐそこまで迫ってきており、また反対を向くと川が流れており、そのすぐ向こうにはまた山が迫るという谷間に私たちは立っていた。都会の喧騒の中で暮らしており、またそれを嫌っている私としては何か嬉しいものがあった。ただ、予想外だったことは車の通行量の多さであった。そこに国道323号線が走っているためであった。さて、私たちは現地についたわけだが、私が先方には11時頃に行くと伝えていたので、今すぐ押しかけることもできず、結局、私たちは先方の家を確認しておいて付近で待機しておくことにした。

 授業でもらった地図と住宅地図とを参考に行くと、以外にあっさりと先方の家は見つかった。この時私は、地図や区長さんの一覧、そして各人の担当区域の割り当て、おまけに調査のマニュアル、とここまで周到に準備をなさった服部先生にただただ感心するばかりであった。まして、担当の大人数を扱うのだから大変苦労されたのではないか。

 家を確認して、しばらくの間私たちは今日の調査の確認のためマニュアルを見ていたりしていた。幸い、現地では、今にも雨が降ってきそうな雲行きだったものの何とか持ちこたえていた。このまま持ちこたえてくれ、と願わんばかりの心境であった。川を覗くと、さすがに泥色に濁っており増水もしているようだった。ここで突然土石流でも起これば完全にアウトであった。そういえば、ここに来るとき出席カードを記入した際に、自宅と帰省先の電話番号も書かされたが、これは私たちの死または行方不明を前提としてものだったのであろうか。

 そろそろ訪ねて行こうかと二人で話し合っていると、先方は意外にもクラクションを鳴らして軽トラックで現れた。そのトラックはそのまま私たちを通り過ぎて行き加茂さんの家に入っていくので、この時私たちは初めて加茂さんであることを確認し加茂さんの家まで歩いて行った。

 そこには一人の老人がたっておられた。背はそれほど高くなく、かなりの高齢に見えるのに、背中は曲がっておらず、また眼鏡をかけており、表情はやわらかかった。

 「児玉さんはどちらで」

と聞かれたので、私です、と答えるとその老人は丁寧にお辞儀をして、今日はよろしくお願いしますとおっしゃるので私たちも慌ててお辞儀をした。

 電話でそれとなく聞いてはいたが、今回お世話になるのは区長さんのお父さんで加茂静夫さんという方だった。なんでも、手紙を区長さんが読まれて、これならお父さん(静夫さん)の方がいいと判断したとのこと。

 それから話はどんどん進んでいった。加茂さんは私たちの事情を理解しておられて、

「今日は現地をまわりますか」

と言われるので、はい、と答えると、じゃあ車で回りましょう、ということになった。

 加茂さんと私たちは軽トラックへ乗り込み、昼過ぎまで多くの話を聞いた。かもさんは車一台しか通れない農道も見事に運転してのけた。また、加茂さんは昔のことをよく覚えておられて、私たちが訪ねたところには田んぼがほとんど残っていなかったにもかかわらず、ここは昔田んぼだったとか、ここにあった田んぼは国道字工事の時に出た土で潰されてしまったとか、本当によく覚えておられた。話を聞いていて驚いたのは、こんな山間地で平野がほとんどないような所でも昔は牛を使っていたということであった。

 加茂さんは自分の戦争体験のことも話してくださった。なんでも、加茂さんは戦争には自ら昭和121210日に志願して兵隊になったという。昭和12(1937)年といえば、日本は盧溝橋事件をきっかけに泥沼の日中戦争に突入した年で、大変な時期に志願したものだなあと思った。入隊した加茂さんは久留米で訓練を受けた後、満州へ行き、ソ満国境の警備に当たったという。ここで張鼓峰事件との関わりを聞くのを忘れて後悔している。その後、加茂さんは衛生兵となり奉天やハルビンに滞在し、昭和19年には台湾へわたり、そこで敗戦を迎えたという。加茂さんは衛生兵になっていてよかったとおっしゃっていた。敗戦まで国境警備をしていたら、侵入してきたソ連軍に殺されるかシベリア行きになっていたのだから。加茂さんが満州で困ったことは燃料のことだそうだ。満洲の冬は当然寒い。しかしながら燃料となる薪を手に入れにくかった。なぜなら、朝鮮にある山という山は全てはげ山で満州でもそうだったらしく、薪を切り出しに行くところが日に日に遠くなっていったからだそうだ。

 昼になり、大体の話を聞き終えたところで加茂さんが、

 「昼はどうするの」

と言われた。私の場合はその日の朝、不覚にも寝過ごして弁当を買う時間がなかったため、私のパートナーの樫山さんは最初から現地で食べることにしていたとのことだったが食べる宛がなかったため、困っていたところにこの言葉である。

 こちらで食べようと思っていたが、食べるところがない、という旨の返事をすると、じゃあ家で食べたらどうだ、ということになった。聞くと、こうなることも加茂さんは家で話し合って予測していたそうで、私たちは加茂さんのお宅にお邪魔することになってしまった。ハウスの仕事が忙しい中、私たちに付き合ってもらった上にお昼までいただくという厚遇にはただただ感謝するばかりで、また加茂さんには本当に申し訳なかった。

 出された食事がこれまた豪華で、私たちは大学に入ってからフライを除けば食べたことのない、魚を一匹まるごとをこの時食した。おまけに、デザートにハウスでとれたてのみかんをいただいた。学食とは雲泥の差である。

 食後も帰りのバスがくるまでお邪魔させてもらうこととなり、私たちと加茂さんはNHKを見たり、話をしたりしていた。加茂さんのお話を聞いていると、大変知的な方であることが分かる。世界情勢に詳しく、また農業の自給率が低いのを心配なさったり、化石燃料に限りがあるからこれからのエネルギー事情はどうなるだろうか、とおっしゃったりと77歳の農家の方だとはとても思えない。その加茂さんが一言、

 「今は勉強せんといかん」

この言葉は私に強く響いた。

 帰りのバスの時間が近づき、私たちは加茂さんの家をあとにすることにした。その時、妙に名残惜しかったのを覚えている。加茂さんはわざわざ家の外まで見送りに来てくださって、帰り際にハウスのみかんを私たちにくださった。

 今回の佐賀現地調査で私の得たものは大きかった。



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