現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/山附

 

1LT97030■  大嶋健司

1LT97031■  太田尾剛

 

 

〈行程〉76日午前9時半頃にバスを降りてから、南側へ向かう道を到り、@の角を曲がってから少し進んで、最初にあった人に区長さん宅を尋ね、そこに行き着いた。しかし、区長さんにしこ名についてしつこく聞いてみたが、あまり詳しくないそうなので、昔のことに詳しそうな古老について尋ねたら、阿倍日吉さんを紹介された。そこで、阿倍さん宅(A)を訪ね、いろいろと話を聞くことができた。(なお、最初に断っておくと、しこ名については全く記憶がなく、聞いたこともないとおっしゃっていた)その後、もう少し、南東の方について調べてみようと思ったが、阿倍さんよりも深い知識を持ち合わせるような方がいらっしゃらなかったので、区長さん宅(B)を再び訪れ、山附(やまつけ)の範囲を聞いたあとで、バスを待ってから帰宅した。

 

〈阿倍さんのプロフィール〉本名:阿倍日吉さん 年齢:86(明治44年生まれ)

横田が上下に別れる前に区長を務めていらっしゃったこともあったそうである。今では農業を息子さんに任せて暮らしていらっしゃる。以下のことは全て、阿倍さんの話をまとめている。

 

〈しこ名〉先程も述べたように、細かいしこ名については伝わっておらず、小字くらいしかわからなかった。話をきいてみると、この辺りは戦乱や大火事に巻き込まれることがほとんどなかったそうである。だから、個人個人の所有する田が明確であったため、しこ名をつける必要がなかったと推測される。小字のみ明記した。(地図参照)

 

小字名

ヒイバル(干居)

ツキオカ(月岡)

ヨシダ(吉田)

ニシダン(西谷)

ニシタミヤ

 

〈山〉阿倍さん宅からほぼ東の方にある山は、トンボヤマ(十棒山)と呼ばれているそうだ。しかし、南側に連なる山は単にヤマとしか呼んでおらず、重要視されていない。のち、地図には載っていないが、鏡山は各地域の人々にとって無視できない存在だ。

 阿倍さんが若かった頃、鏡山は村の共有地であり、自由に出入りできたが、昭和6年から個人に土地が振り分けられ、阿倍さんも16反の土地を持ったそうだ。土地の仕切りは谷や辻、大きな岩などで目印をつけていたらしい。

 昔の鏡山は様々な草が生える草山で、阿倍さんもよく草刈にでかけたそうだ。村人の中には自分の土地から木を切り出して、家を建てる人もいたという。

 しかし、現在では山に植林が行われ、山道だったところもオトコダケやオンナダケが生い茂り、登りづらくなったそうだ。また、木を切り出すにも人件費がかさむため、普通に買ったほうが安上がりらしい。おかげで今では、山は荒れ放題で、阿倍さんも今では山に登っていないということだ。

 

〈水利〉水路そのものの名前はわからなかったが、山附に流れてくる水路は、様々なところから通じている。中には、意外なところから通じる水路もあり、村同士の協力姿勢を感じさせられた。以下はそれらについて表にまとめてみた。

水源

範囲

特徴

玉島川流域で平原乙区のウノクギ(井の木)

井の木から横田上区の山本周辺を経由して、山附周辺まで、小字15くらいに及ぶ。

浜玉町で最も長い水路。

玉島川流域の五反田

 

五反田と南山区玉島の境界線から大江区を経由して山附周辺まで小字10前後に及ぶ。

川岸がないため内陸部には不可欠と言える。

横手川の土手(ノボリドイ)

小字45個くらいになるだろうか。

地図の左端で、阿倍さん宅(A)から西の方にはかつて山があったが、それを切り崩して部落をつくり、そこから東に通路を作って水を通している。

玉島川流域で平原甲区の草場

草場から南山区を経由して山附周辺まで、小字13個くらいに及ぶ。

2つの玉島川からの水路と合わせて、旱魃に備えている。国道323号線の下を通っている。

水路は地下に埋めた鉄管の中を流れて山附などに行き渡っているということだ。畑や田に水をやるときは、100200m毎にあるコンクリート製の溝が使われている。昔からあった水路や溝は、昭和42年の土地改良によって埋め立てられたため、現在の形になったということだ。

 

〈干魃対策〉上に述べた広範囲の水路のおかげで、1994年の干ばつでも、水が途絶えることはなかったそうである。しかし、水路が出来る前は、雨乞いをしていたそうだ。

 阿倍さんの青年時代にも大旱魃があったという話である。その時は、田んぼに水が入らなかったために、作物ができずに大変だったそうである。そこで、各地区から代表者を一人ずつだし、麦わらを頭にかぶって鏡山に上り、センバダキという雨乞いの儀式をやったそうである。

 

〈農業〉横田下区付近にはかつて松浦川が流れてきており、そのおかげで大部分が湿田だったそうである。湿田は土が深く、根がよく入るために、米作りには最適だったとおっしゃっていた。しかし、昭和42年の土地改良によって、松浦川の流れが、変えられたりしたために、今ではことごとく乾田になっているそうである。

 また、昔は鏡山で果物(みかんが中心)が作られていたらしいが、今ではふもとでハウス栽培が主流になっているようだ。

 米の話に戻るが、横田の辺りは比較的米の出来がいいらしく、佐賀県内では浜玉町が一番最初に土地改良をしたということだ。田んぼ1枚の広さも、昔は1反だったが、土地改良後には3(30m×100m)になったとおっしゃっていた。そのほとんどが湿田だったせいか良田が多く、特に干居と山附の間のバイパス沿いが最もいいらしく、ます切りの時にますが多いと誇らしげにおっしゃっていた。

 

〈肥料〉昔は草木灰が牛肥などを使っていたようだが、今では農協から総合肥料をもらっているようだ。イニヒ(米作り)、ムギヒ(麦用)、ヨンパチ(野菜作り)に分けられる。

 

〈神社と祭祀〉横田を筆頭に、周辺の地域も含めて広範囲に横田七天神と呼ばれる7つの神社があったそうだ。しかし、阿倍さんも7つのうち5つまでしか覚えていらっしゃらなかった。横田天神(上下があるそうだ)ヒッテンジン、タカニシテンジン、トリゴエテンジンがその5つだが、タカニシテンジンとトリゴエテンジンは既に現存せず、他のものもかなり小さな社が建てられているに過ぎないようだ。中には、御神体を祭っていない社もあるらしい。実際に何の神を祭っているかは不明だが、近くに、天満宮と呼ばれるものもあるので、菅原道真だろうと推測なさっていた。天神だったら、多分ジジングライ神宮というくらいだから、地神(じじん)を祀ったものではないかとおっしゃっていた。

 しかし、成立年代はそんなに古いものではないらしい。横田下天神の鳥居には天保14年の年号があり、他の神社の鳥居に明和4年の年号が見られるという。また、神社の石灯籠にも、弘化元年(阿倍さんのおじいさんが生まれた年らしい)の年号があり、江戸時代に成立した新しいものだとおっしゃっていた。ちなみに阿倍さんの家系は鏡山の山頂にある神社の氏子で、阿倍さんの祖父は三男だったそうだが、本家から別れて分家を作り、現在に至っているということだ。

 山附地区では、毎年410日に玉島神社の神主、熊本さんを呼び、地区内持ち回りで6人ずつ代表者を選び、一軒千円ずつ寄付金をもらって春祭りを行うようだ(祈年祭に当たる)しかし、どこの神社を主体とするかは不明だ。それでも、現在まで続いている。

 他にも、今では行われていない祭りが秋と夏に各々行われていたようだ。まず、夏には夏祈祷と言って、秋の収穫を願う祭りがあった。秋には、基本的に一つ、年によって二つ祭りが行われた。毎年行われる方は無病息災を願って、輪くぐりというものが行われた。(人が作った輪かひもでつくった輪かは不明)もう一つは、豊作を神様に感謝する祭りが、収穫後に行われる。10月の丑の日(阿倍さんの記憶は不確か)に神主を呼んで行われる。(新嘗祭に当たる)

 

〈村の展望〉過疎化が進む農村が増える中で、横田下は少しずつ発展する傾向がある。まずは、人口についてまとめてみた。

 

山附

大岩

横田下区全体

(S45)

40

145

80(300)

現在

60

145軒

300(1000)

このような発展をしたのも、地図上部のバイパスが出来てから宅地が増えたためだということだ。阿倍さんの、「文化は道から」という言葉にも表れている。今では「横田下にないものはない」と言い切っている。阿倍さんの言うとおり、道を歩いている途中でも家が続々と建っていた。勢いというものを感じさせられた。

 しかし、皮肉にも阿倍さんの言葉は暗い面をも含んでいる。農家の立場からすると、少しずつ、問題が表面化しているのだ。実際阿倍さんも「農業の将来は暗い」ともらすほどだ。阿倍さんはこの話題について最も力説してくださった。

 まず、海外から安い農産物が大量に飛行機で運ばれるようになったため、ハウスモノの価格が下落している。その結果、収支が見合わなくなり、生活に影響が来るということだ。

 次は、後継者問題がある。村が開けてきたといったが、新参者は大抵が給与取り(サラリーマン)で、農業をする人はまずいないようだ。さらに、農家の子供で高校卒業後農業に従事しているのは山附でも3世帯に過ぎないようだ。農家が自然消滅してもおかしくないだろう。

 そして極めつけは、政府の政策だそうだ。日本の農産物の価格が高いからと言って、米価の下落を方針にしているが、阿倍さんはそのことについて疑問を感じている。

 

校長の給与

教員の給与

米1俵の価格

昭和初期

5060

2030

10

現在

5060

2030

15千〜2万円

上の表にまとめたように、収入が70001万倍になっているのに対し、米価は15002000倍にあがっている。物価高と言われているが、エンゲル係数は相対的に下がっている。つまり、食料にかける費用よりもそれ以外のものの値段が上がったため、米価も高いと錯覚しているのだ。この上、市場自由化なんかすれば日本の農業は絶滅するといってもおかしくない。

 今、若者の失業率が問題になっているが、農業にまわれば均衡が保てるのではないだろうか。自然と古老は農村にしかいないと断言したい。

 話しは変わるが、横田下を何度か訪れれば、村が発展する過程がわかるかもしれない。それくらい都市にあるものが村にも入ってきているようだ。(実際、カラオケハウスの看板を2つほど確認した)

 

〈反省〉今回の調査で、しこ名を聞くことができなかった。あと、地図に鏡山を載せることや、水路の細かい部分を書く事ができなかった。(もっとも、水路は地下に埋まっているので、分からないのも無理がない)手続きはつたなかったが、いい経験にはなっただろう。

 

〈感想〉農家の人にとってはむしろ、生きてきた昔よりも生きている今を重視することが切実な問題だと感じさせられた。実際九州大学の学生だと明かしたら、横田下古墳の場所を教えられた。農民が歴史的に苦しめられてきたと思えば、その時代について聞くのはある意味残酷だろう。苦しかったことは振り切ってしまいたいと願うのは人間みな同じだから、歴史にたずさわる者は過去を知るだけでなく、未来を見なければいけにと痛切に感じた。[大嶋]

 

今回の調査で「農家の人は気さくだ」という僕の考えは少しだけ崩れてしまった。しかし、阿倍さんはとても優しい方で、僕たちが突然訪ねてきたときも、自らがやっていた庭木の手入れを中断してまで、いろいろなことを話してくださった。最近は人間関係のつながりが希薄だとされているから、せめて田舎の方には今後もこんな気さくな人が残ってくれたらなあと願う。

 村を訪ねて民家をまわる、ということは当然であるが、今までにやったことはめったになく、失敗や無駄なことが多かったと思う。でも、今回の実地調査は、今までにない新しい経験になったことは確かだ。現在の農業問題にまで、触れることができ、本当に嬉しかった。[太田尾]



戻る