佐賀県唐津市浜玉町山瀬

 

1LA97046■  上村太一

1LA97041■  上田優子

 

聞き取りした相手:矢野さん 昭和6年生まれ

         溝部さん 昭和11年生まれ

 

大字

場所

浜玉町山瀬

山上

 

立石

荒川

 

道ノ下

マリ石

 

 

 

 

浦の迫

 

 

 

 

山田坂

 

 

 

油メ谷

 

 

 

川口

 

 

 

 

 

畦ノハシ

 

 

キトヲ

大字山瀬

大字伊岐佐丙

大字山瀬

大字鳥巣

大字山瀬

大字山瀬

唐津市半田

大字山瀬

大字浜崎

相知町大字長部田

村木町

唐津市半田

大字山瀬

唐津市半田

唐津市市原

東松浦

大字浜崎

大字鳥巣

大字伊岐丙

市原

伊岐佐丙

鳥巣

市原

浜崎村大字星領

東山田

大字山瀬

長部田

相知町大字千東

長部田

相知町大字横

山瀬

五反田

平原

山瀬

 

(1)   山瀬の歴史:

山瀬の歴史は400年前に始まる。それ以前は僻地と呼ばれていた。松浦 党の17代波多三河守親は秀吉の御勘気を蒙り、常陸国筑波山麓に配流された。岸岳城を囲み7つのかまがあったが、波多家の没落と同時に四散した。その一部が山瀬にかまを築き、古唐津で名を残す山瀬古窯として存在する。

その後、昭和34年、3級僻地として指定された山瀬は浜玉町から補助を受けていたが

浜玉町立立山瀬分校の生徒が独りになったのを機に浜玉町の主導の元山田へ集団離村が進められ1994年に完了した。

現在は農繁期に稲作にやってくる旧山瀬住民と東京からやってきた神代さんと炭焼きの矢野さんと蕎麦屋の溝部さん夫婦からなる自然が豊かな村である。

 

(2)   水利と水利慣行:

僻地だったせいか他の村との水路の共有はなかった。稲作などがあまり行われていなかったので生活用水は各家の井手でまかなわれていた。近年、機械を入れた他の整備による川の汚染が心配されている。

 

(3)   古道について

川沿いの主要な道は昭和54年に舗装拡張工事が行われて今に至る。一番多く利用されている道は野田温泉の先、保坂から南へ登る道であり走りやすい。道路標識も整備されていて、この道が山瀬へのメインロードである。

七山の樫原湿原から大屋敷、鳥巣、山瀬とヤマナミハイウェーは道が狭い。

要所から要所への通過点ではない為、当然カッタイ道も存在しなかった。

自給自足の生活だった為道はあまり発展しなかった。

 

(4)   祭祀について

山瀬の住民は朝鮮征伐の頃の海賊成主波田氏の家臣である事は前述のとおりである。彼等は当然ながら自分の藩をとりつぶした秀吉を恨んでおり、その恨みを抱きながら不遇だった城主を忍び、岸岳山のかわりに石を祭る岸岳ばっそんという信仰を行った。なお、村祭などはなく、実際に見たわけではない。

現在では山の上に天神様も出来、天理教も入ってきている。ちなみに溝部さんは無宗教らしい。

 

浜玉町レポート(上村太一)

1. はじめに

今回の現地調査の日程とお世話になったかたがたの紹介をはじめにしておきます。まず、722日に地下鉄天神駅から9時の電車で唐津駅まで行き、そこで、部活の友人であり、ネイティブな佐賀弁が話せるアシスタントの高柳君と合流しました。それから、昼食をとった。唐津の食堂で、息子さんの進路の相談とひきかえに、アイスコーヒーをいただいた上、夕食と宿をお世話してくださるという約束をいただきましたが、結局は唐津に戻らなかったので、行きませんでした。1230頃、唐津駅からヒッチハイクで佐賀市役所勤務の方に連れて行っていただき、そこのこの前の現地調査で車に乗せていただいたお兄さんから、上山瀬から離村された3名の方々の住所と電話番号を伺いました。

役場で伺った住所と円楽寺で描いていただいた地図を元に、生鮮市場で購入したスイカ2玉のうち1玉を手土産として、岩村功氏のお母さんから、夕方に2時間ぐらいお話をうかがいました。

PM5:00過ぎくらいに、岩村さん宅を後にして、しこ名の確認をするために、山瀬迄のヒッチハイクを試みましたが、あまりの遠さと不便さのために、みんな断られて、途方にくれていたところを、横田下の田んぼの中の道路で、ミゾタ株式会社の水工部工事化主任の小副川勝信氏に拾っていただき、七山村のあたりにある、事務所を宿として提供していただきました。

 723日は、8:30に、出勤してこられた、ミゾタ()の皆さんに挨拶をしてから、歩いて、上山瀬へと出発しました。と中、小さな商店から、山瀬へ至る道の入り口まで、車ではこんでいただき、その後、工事現場のお兄さんにトラックの荷台へ積んでいただいて、かなり助かりましたが、それでもなお、10km近く山道を歩いたため、熱射病に近い状態で、狐狸あんさんにおじゃましました。2時ぐらいから1時間ぐらい、岩村三郎氏にお話をうかがった後、帰りの車を確保するため、狐狸庵さんの家の犬の散歩をしたり、畑の草をむしったりしたのち、4時半ぐらいにちょうど福岡へ向けて、お帰りになるところだったお客さんの車に乗せていただいて、前原というJRの駅までつれていっていただいてそこから電車と自転車で帰省しました。

 

2. 岩村しまこ(本名はひみつなので、これは娘さんの名らしい)[明治44年生まれ]の証言

 功さんの母であるしまこ(仮名)さんのお話は早口の佐賀弁だったため、本土生まれの私には、うまく聞き取れなかったのですが、とりとめなくつづってみます。

 農業

農業については年に1回昔から米だけをつくり、麦は1回しかつくったことがない。やまが植林になったため、住処をおわれた動物たち[猪は畑を鳥は小豆を、うさぎは田んぼを]が農業のじゃまをする。今日は私(しまこ)以外は皆測量の手伝いに金をもらって行っている。毎年、久留米から山瀬の測量に来る人の手伝いをしているが、公的なものかどうかは不明。

 道

すいに荷物を運ばせていた。今ある川の横の太い道は、昔はなかった。細かい道を使っていた。カッタイ道はない。

 墓

今は火葬にするが、昔はやかずに甕にいれて、深い穴を掘り、それぞれの家のすぐ近くに埋めていた。

 宗教

岸岳ばっそんは家では信仰している人がいないため可愛そうなので、正月には自分たちの土地にあるよしみで、村人がまつってあげる。岸岳ばっそんの場所はやきもの屋まではいかないところにある小屋を右にのぼったところ。上州ひたちの守という碑文と4人でも囲みきれないぐらい太い松があったが、松は加茂さんが新居に使ってしまった。16人分の墓のようなものも、きしたけばっそんのところにはあるらしい。今は神道はまったくなく、ほとんどおたいし様を祭っている。

510日と9月すぎには、おおめぐさんというのがやってきて、おだいし様をまつるので、おおめぐさんのもてなしがたいへんだった。おおめぐさんはよく道に迷った。*おだいし様は弘法大師のことと思われる。

 その他

離村は役場からおこなわれたのではなく、学校や嫁など自分たちの問題から自分たちで決めたことで、最後に残っていた3軒の離村は4年前。上瀬には岩村という名が多いらしい。

 しこ名

学校の上の橋は「からつわたで」と呼ばれていた。「寺屋敷」という場所は冬の病院さんがかってから田から林へと変換した。蕎麦屋の下の広い道から右に登ると下川さん所有の「あぜのはし」

 

 

3. 岩村三郎(大正11年生)氏の証言

飲み水

飲み水は山水で水不足はまずなかった。戦争中さえも食糧不足はなかった。

 業

あぜ道にあずき、さつまいも、大根を植える。動物による農業の被害は深刻。浜崎では猪にさされる事件まで。小道は獣が多い。山瀬は冬には全員炭焼きをしていた。寒山を払い下げてもらっていた。

 しこ名

下山瀬は「きと」と呼ばれる。そばやの下の右は「あぜのはし」下川さんが所有しており、下川さんは機械も持っている。

学校とやきもの屋の中間の小屋のとこ「あらこだ」、そのやきもの屋(上の方)3枚を「うらのさこ」と呼ぶ。

やきもの屋のあたりの上へ登る道の際の杉が生えている所が「山の上」

やきもの屋を下っていった山瀬の境目の浜崎側が「うしろんだら」

バスで止まった溜池は、かなり昔からあった「ななまただめ」

学校の上の橋を渡って杉が有る所が「くろ



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