現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/鳥巣
1LA97001■ 相田怜子
1LA97012■ 荒川久美子
田中静夫:昭和5年生まれ
村の名前
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しこ名(カタカナ)一覧
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鳥巣
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田畑
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小字 鬼杉のうちに
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オノスギ、ジョウセンダ
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小字 クスノモトのうちに
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クスノモト、ヤマノタニ
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小字 オトノマワリのうちに
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シイノキ
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小字 日当のうちに
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タニゴンサク
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小字 原田のうちに
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ムカエウラ
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小字 木下のうちに
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オオジモ(大下)
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小字 向四郎のうちに
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ムカエマエ
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小字 前田のうちに
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マエダ、ヒコツチ
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小字 向大のうちに
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マツノモト
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小字 鳥木のうちに
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ジャーラ(平)
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小字 中ノ平のうちに
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ジコ
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小字 真木のうちに
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ハルダ、アナガマ、カンコダ、ナシノキ
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小字 スイモン田のうちに
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スイモンダイ
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小字 宇士川のうちに
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ウドガワ、ゼンカイダ
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荒地
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小字 山口のうちに
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ヤマグチ
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小字 中ノ平のうちに
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コトゲ
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*この辺りは大きな木や岩はないのでそういうものに付けられたしこ名もなかった。
−村の水利−
村の名前
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用水源
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共有しているほかの村
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鳥巣
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椿山ため池
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平原
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配分に関しての特別のルール
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昔の水争い有無
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無
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無
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特別に水利に強い村の有無
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鳥巣は強い
理由 鳥巣が源を握っているので
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・焼き畑は行われておらずキイノ(切り野)もなかったことだった。
・シュウジ(古賀)もなかったし、屋号も言葉の意味も誰も知らず、説明してもそういうものはないということだった。
・村の範囲は村人にもよくわからなかった。
−1994年の大旱魃−
この年は大川という川から水を引いたということだった。ほかの村から水を分けてもらうとか、時間給水、犠牲田などの特別な水対策はしなかったらしい。そしてもし、この大旱魃が40年前の出来事だったら、そのままだったという話しだった。大川から水を引くためにポンプを使ったということだ。今はビニーパイプがあるので便利だが、その前は竹を半分に割って「とい」のようにして使っていたので効率が悪かったらしく、40年前大旱魃があったらやはりそのままになっていただろう話してくれた。
−村の耕地について−
村の名前
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米の収穫量の場所による差
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湿田では戦前化学肥料が入る前、米は反当り何俵とれたか
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鳥巣
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有
道路沿いがよくとれ、山際の方があまりとれなかった。
理由:牛を使っていたため
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4俵ぐらい
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戦前の肥料
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大豆の油をしぼった後のカスをくだいてまいた。
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化学肥料が入った後ではどう変わったか
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乾田の有無
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化学肥料が入る前は山の泥を使っていたが山の泥を使うのとでは全然収穫量が違う
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無
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・入り会い山はなく個人の山林が多いということだった。
−村の道について−
・学校道は地図に書いてあるとおり。
・○○ノウテと呼ばれる道はないということだった。
−祭祀について−
・旧暦の8月25日に天満宮で鳥巣くんちという祭りがあるということだった。この祭りでは天つく舞浮竜という踊りを小学生ぐらいから大人までの男の子だけが踊って鐘や大きな太鼓をたたいたりするということだった。
・家では「こうしんさま」という田の神様をまつっていてこれは当番制でまわって祀るということだった。
−1日の行動記録−
平成9年7月12月、土曜日、雨午前8時15分学校に集合し、出席カードを受け取る。朝早かったのでねむけとこれから行くところへの不安な気持ちでいっぱいだった。
8時30分頃学校出発。出発とほぼ同時に私たちは深い眠りの中へ・・・。
気がつくとおさかな村に着いていてさっそく1番最初のグループの人達がバスから下ろされた。それからだんだんと人が下ろされていくにつれて、バスは山の奥へと進んでいった。私たち鳥巣はまだ下ろされない。バスは狭い山道を走って数十分、10時40分頃、やっとバスから下ろされた。そこは本当に山奥で静かな民家10軒ほどの村だった。さすが山の中だけあって空気がおいしかったし、雨のせいもあると思うが寒かった。
とりあえず、どうしようか迷った。それは村のことを尋ねる人がいなかったので、突然訪問して話を聞くしかなかったからだ。そこで手当り次第家を回ることにした。まず、人がいそうな家に行ってみたが、子供しかいなかった。次の家も留守だった。人は仕事に出かけている時間だったようだ。こんなことで、本当に調査がうまくいくのだろうかとかなり不安になっていたとき、訪れた家の人が幸運にも話を聞かせてくれた。まだ、この村に来て10年もたっていないご婦人だった。とてもいい人だった。
12時になるとサイレンがなった。すると軽トラックがどんどんと家に戻ってきていた。どうやらサイレンがお昼ご飯の時間を知らせる役割をしているようだった。私たちもお昼ご飯の時に訪れては迷惑だと思ったのでお昼ご飯を食べることにした。雨が降っていたので、鳥巣の分校で雨宿りをして食べた。こんなのどかな生活もいいなと思ったりした。
1時間の休憩の後、また調査をはじめた。今度は村の人たちがけっこう家にいたが、若い人が多くて知っているという人がいなかった。それでも、自分の水田だけなら知っているということで教えてくれる親切な人もいた。
そして最後の1軒、これが大変お世話になった田中静夫さんの家だった。最初、私たちが行くとご婦人がいたので、調査の説明をすると、それなら静夫さんの方が詳しいということでわざわざ静夫さんをよんできてくれたのだ。そして静夫さんの話を聞くことができた。今まで聞いた人はしこ名という言葉を知らなかったが、静夫さんは知っていた。無事に話を聞けて調査は終了した。
全体的に見て人々の印象はとてもいい人が多かったということだった。「こんなところまで大変ね」と言ってくれたり、帰りのことを心配してくれて嬉しかった。
話を聞き終わったのが2時ぐらいだった。来る途中に公園があったのを思い出し、トイレにも行きたかったので公園まで行くことにした。公園はとても整備されていてトイレもきれいだった。公園の中にもいろいろと遊具があって、雨が降ってなくて晴れていたら絶対に遊んでいたのに残念だった。
そして朝バスから下ろされた場所にまた戻ってきたのが3時頃だった。バスが迎えに来るのが3時半ごろだと聞いていたので、20分ごろまで分校で雨宿りをしようかという話になったが、一応そのまま待つことにした。すると15分ぐらいに、1台の軽トラックが私たちの目の前に止まった。その車に乗っていた人は、宇士川を調べていた人達が話を聞いた吉原伸治さんだった。吉原さんの話によると宇士川の2人は今、公民館でバスが来るのを待っているから私たちも車で公民館に連れて行ってくれるということだった。そして車に乗ろうとしていると後ろからバスがやってきた。バスはまだ30分になっていないのに車をよけてそのまま進んで行く勢いだった。もしかしたら20分まであまやどりをしていたら、いていかれた可能性も、と思うととても怖かった。だけど無事に乗れてよかった。それからまた狭い山道をバスは下りていった。
土砂崩れの可能性のありそうなところを過ぎるとやっと安心した。おさかな村をすぎてからはまた深い眠りの世界へ・・・。
午後6時前頃学校に到着した。
とても貴重な体験をしたと思う。本当に村の人たちはいい人だったし、こういう出会いというものは大切にしたいと思った。きっと忘れることはないと思う。