現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/鳥巣宇土 1LA97031■ 井上裕子 1LA97037■ 井本有香 聞き取りした方の名前と生まれた年 吉原伸治:昭和16年 吉原洋子:昭和19年 全軒をまわった中で、ほぼ全ての内容を教え、地図に書き込みを加えてくださったのが、吉原伸治さん宅だった。吉原さんの宅5軒は、どの方もとても親切だった。とくに伸治さん達は、家の中まで通して、お茶などでもてなしてくださった上に、トマトとみかんをおみやげにして集合場所まで送ってくださった。行きがけも、災害のパトロールをしていた方々が、鳥巣から宇土まで送ってくださった。大変お世話になった吉原伸治さんには、お手紙とお礼を送りました。
(場所は地図参照) *ウウブケの意味・・・「ウウ」は「多く」がなまったもので、たいへんという意味。「ブケ」がぬかるみという意味で、たいへんぬかるんだ土地ということ。排水工事をするまでは、牛にひかせて耕すことも、地下足袋で入ることもできないほどだったそうだ。 平均3俵くらいとれて、良田では3俵半、悪田では2俵半くらいで、1俵くらいの差が あった。麦は、気候が寒冷なのでつくれず、少し畑に作っていた程度だそうだ。 ○水
大川からひいているという家もあった。そこはいるだけとっているらしい。 たいていは、山の水で、昔はパイプでひいていた。 今はボーリングで掘っている。 水争いなどは全くない。 ○1994年の大旱魃の時は泉水が干上がって、よそから水をもらった。生活水に困ることはなかった。(ボーリングしていたため)しかし、水稲は水不足のため収穫量が減少した。 ○もし、この大旱魃が40年前の出来事だったら? 「死ぬことはないだろう。下にいけば水はある。しかし、農作物による収入は減少したはず。」ということだった。 ○電気 昭和22年に共有地である部落の山を処分し電灯を引いた。この作業のため、作業員が1年くらい、村人の家に泊まっていた。それ以前はろうそくだったらしい。 ○肥料 化学肥料が入る前はカシキを使っていた。野焼きも行われていた。(現在は杉の植林がされている)化学肥料が入ったあと、農業は手間いらずになり、収穫量も増えたらしい。 ○道 現在と変わらない。牛に7,8つ木炭を結わえ付け、自分自身も前後にからってその道をとおり、現在の「おさかな村」あたりに売りに行っていた。 山の名前(位置は地図参照) ・サブダ(平野岳) ・アツマンダ ・キシダカ ・ムカエノ ・シモヤシキ ・コバ ・ナシノキ ・シンデン ・グミノキ ○村の祭について 近所で祭る神・・・藤原神社=藤原鎌足を祭っている。嘉永5年(1852)の創建。昔は水上神社ともいったらしいが、今の村の人は知らなかった。 甲神様・・・2ヶ月に1回のきのえ(ひのえ)申の日の晩、各家の持ち回りで、一家の主人がご馳走になる。 大日様・・・1年に1回牛の神様にお参りし、お酒やお煮しめをふるまう。男の人のお祭り。 弘法大師・・・各家で祭っている。女の人がするお祭り。 おひまち・・・お天道様に感謝するもの。泊まり込みでもちをつき、朝、神様に上げる。平原でも同様のことがあるそうだ。11月20日に行われる。 天満神社の氏子 ↓ 寛政7年(1795)創建。鳥巣にある。菅原道真公をまつり、命日の旧8月25日には、浮立稚 児舞が行われる。 先祖供養・・・村落の高み(地図参照)に吉原家の先祖墓があり、11月3日に吉原家全体でおまいりし、掃除し、しめなわ、おみきなどを上げ、お酒やお煮しめなどでごちそうする。 ○村の歴史とこれから この村では、昔、車力やリアカーが通るくらいの道しかなかった。 昭和30年 伸治さん、農業に従事する。その当時みんなでもっこを作って山へ出かけ、スコップ、つるはしで岩を掘り、道を作った。オート三輪車も通るようになった。 ↓ 米作りに化学肥料を使用するようになった。 それまで、道づくりなどはすべて自分たちで行っていたが、行政が道を作ってくれるようになり、厳木、七山方面へも道を作ってもらった。 このため肥料、生産物の運搬も来るまでできるようになり、野菜やほかの生産物からも収入が得られるようになった。 現在は花も作っている。 そういうわけで、ほかの村よりは生活が楽らしい。 ↓ 昭和33〜34年 田んぼがぬかるんでいたから全部の田んぼの5年計画での排水事業に着手した。 昔は牛も入ればぬかるんでしまうような田んぼでおまけに千枚田(小さな田んぼのこと、1反にするには10〜15枚いるようなもの)であった。 排水事業が終わると、ブルドーザーが出現し、山を崩して田を広くした。このおかげで耕運機やトラクターも入るようになった。地形が盆地的だったこともあって1枚が1反〜1反5畝(10〜30アール)になった。 昭和40年 県道が編入した。 昭和47〜48年 ST線(平原−鳥巣間)ができた。 海抜600m位の高原であることを利用して、高冷地野菜、高冷地花をつくりはじめた。 これを佐賀・唐津・長崎・福岡に出荷することによって平原と同じくらい豊かになった。 そうして、現在に至る。 ○鳥巣のこれから 平成8年 佐賀県の植樹祭が行われた。 県の行政は自然公園建設費用に17兆円をあてている。 (鳥巣は高原なので夏、涼みがてら遊びに来て欲しいということだった。) 宇土はあととりが多く、嫁不足もない。花・野菜の試験場に勉強に行った若者も帰ってくる。(愛知まで行って、帰ってきた人もいるらしい。) 1戸あたりの収益も高い。 だから、今後の期待は、鳥巣の農産物地元販売に寄せられている。 ○日本の農業の展望 地道に農業をやっていけば、特に、先行きが暗いとは思わない。現在の状況としはだいたい良いので、これから先も農業で暮らしていけるのでは、と思われる。 |