現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/千原 1LA97138■ 末継智章 1LA97170■ 徳永善行 @ しこ名(地図中・赤枠黄色)
・1の詮議田は千原ではないらしいが、念のため付け加えた。 ・1の詮議田の一帯(桃色で囲んだところ)は三宅(サンダク)というらしい。 あと、寺田よりもさらに北の一帯(同上)は松本(マツモト)という。 おそらく小字らしいが、昭和初期以降は、それに千原(チワラ)を加えた。 3つの呼び名で呼んでいた。 A
千原の範囲 地図中橙色で囲んだところ。 薪モン山(タキモンヤマ)の西斜面と小川川流域。 ガブロまで。 B 水利・水路 a. 井手、ガブロ ・・・ 千原橋から少しさかのぼった(南側に)ところにある堰。 ここから千原・松本・五反田の水をすべて引いている。 屋敷田の横にあった水車も水路の水を小川川に戻すときの流れで回した。つまり、一部の水はその時点で小川川に戻された。 松本の奥に精米用のタービンがあった。 b.水争い ・・・ 戦前までは千原と松本、そしてタービン管理者の争いがあった 夜の水守など、その地区の住民が交替でやっていた。今は田んぼはなく、すべて果樹園となっている。 c.干魃 ・・・ 戦前は「b」のような状況。一応時間を定めて各地区に割り当てる取り決めはあった。1994年の時は、すべて果樹園と変わっていたためそれほど水は必要なく、特に苦労はなかった。 C 焼き畑・切り野の有無 無し。全て田んぼ。 D 目印となる岩や木の名
E 村の名(シュウジ)・屋号 a.しゅうじ 千原(チワラ)で呼んでいた。 あとは麦わら市・・・屋根が全て藁葺きだったから。 b. 屋号
もともと7軒しか家がなく、谷口2軒、古川2軒、吉村1軒、佐々木2軒だった。 F 山の呼び名 地図中の赤の区分け A薪もん山(タキモン山)・・・千原地区の人々が燃料や山菜を取る山。田畑は昭和に入るまではなかった。 B矢太郎(ヤタロウ) ・・・ガブロの前あたり。山への登り口。 C伊坂(イザコ) ・・・山の頂上付近。五反田に含まれる。 ABCを総称して釘山(クギヤマ)という。 G 農業 a. 収穫の良し悪し・・・水争いに勝てるかどうかで左右される。話によると、健康と利益とどちらをとるかといわれるほど厳しかったらしい。 b. 肥料 ・・・牛馬ふん、腐葉土 H お祭り・氏子・檀家 だご市(ダゴ市)・・・1年に1度、春に行われる。千原では薬師堂で行われた。 内容:仏生(ブッショウ)1つまみの米をちり紙につつんだものをそなえると5つ団子のついたクシを1本もらえる。ほかの地区でもあった。戦後衰退。 氏子 玉島神社 檀家 功岳寺 *薬師堂も守り神としてまつられている。薬師堂は昔はただの石にゴシンが入っているといってまつられていたが、明治5年生まれの佐々木さんが戦前仏像をつくった。(当時5円) I 古道 ほぼ現在の道路と変わらず。 隣村へ通じる道は特に運んだものはなし。しいてあげると、農作物を市場に運ぶくらい。 J 情報提供者 浜玉町JAのみなさん 佐々木静男さん(大正12年生まれ) 千原にお住まい。 K 感想 ・佐々木さんは非常によく覚えていて、しこ名だけでなく水路、山の名、祭りのことなどほとんど教えていただいた。1つ1つの名称にいわれがあり、興味が尽きなかった。〈末継〉 ・最初の2、3人訪ねたとき、不在か「わからん」と言われるかで調べきれなかったらどうしようと思っていたが、佐々木さんがよく覚えていてくださり、助かった。感謝したい〈徳永〉 |