現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/砂子

 

1LT97020■  井上結

1LT97017■  伊東優子

 

話者:重俊雄さん  52歳 昭和20年生まれ

   近藤甚三さん 82歳 大正3年生まれ

 

−しこ名−

浜玉町 砂子

 

 

 

[田畑]

小字 長畝のうちに

 

 

小字 松原口のうちに

 

小字 沖田のうちに

 

小字 下砂のうちに

 

小字 干居のうちに

コッテンシンガイ

(コッテシンギャーともいう)

 

ツキオカ

 

カギタ

 

シモンジバヤシ

 

ムタ

 

 

   []

鏡山のうちに

ヤマノシタ(山の下)

ゴンゲンダニ(権げん谷)

ムカシコバ(昔木場)

アラダニ(荒谷)

ビワノクビ(びわの首)

[井手]

 

ウノクビ

 

−屋号−(近藤という苗字において)

・ヒガシヤ

・ニシノヤ

・ナカ(テンチョウヤマ)

・クスリヤ(くすりを扱う)

・コウジヤ(こうじを扱う)

・マツバヤ(松葉を扱う)

・コウヤ(藍染・米酢を扱う)

屋号は地主などの大きい家の苗字を区別する際使われてそうだ。近藤さんの家は3代前に分家して、様々な商売にわかれたらしい。

 

 午前830に学校を出発後、1000ごろマリンセンターおさかな村に到着した。予想よりも早く到着しすぎたため、重さんに電話をかけた。今から来ても構わないということだったので、すぐ、重さんが経営する花屋さんを訪ねた。天気予報では雨と言っていたのに、晴れていたので嬉しかった。しかし、とても風が強く歩きづらかった。

マリンセンターおさなか村から唐津方面へ10分ほど歩くと、「フラワーショップひれふり」に着いた。日曜日を返上して働く重さんの時間をいただくのも最小限にしなければと思いながら、中に入った。重さんは奥の方のテーブルに私たちを案内してくれた。席に着くなり、雨がものすごい勢いで降り出し、びっくりした。重さんは私たちのために地図と浜玉町史を用意してくれていた。しかし、自分にはしこ名などの昔のことはよくわからないから、ということで、あとで古老を紹介してくれることになった。そこで、私たちはできる範囲、この砂子という村について質問していった。

重さんはこの村の水利について簡単に話してくれた。この村ではあまり水に困っている様子はなかった。10年かけてかん水事業が行われており、それは平成113月に終了するということだった。1300ごろから古老の家に連れて行ってもらえることになったので、1230ごろまた戻ってくると約束して、1130ごろに重さんの家を出た。マリンセンターおさかな村に戻って昼食をとり、もう一度質問事項のチェックと下調べをした。

1230にフラワーショップひれふりに戻った。まだ少し早すぎたので、そこでもう一度質問したいとこをまとめた。1300ごろから、重さんが車で古老の家へ連れて行ってくれた。途中「そげ抜き」の薬をつくるという人の家を教えてくれた。そげとはとげのことだそうだ。

1300すぎに近藤甚三さんという方の家に着いた。そこで2時間ほど話を聞いた。まず、青年クラブという砂子を守るための男性の集まりについて話してくれた。近藤さんもかつては青年クラブの一員だったそうだ。とてもなつかしそうに話してくれた。他に、浜玉町の名前の由来、村の水利、村の祭祀、耕地整理、圃場整備、屋号などについて質問していった。村の水利はやはりいろんな工夫がされているようで、あまり水に困るという様子は感じられなかった。いちばん重点を置きたかったしこ名の聞き取り収集はあまりうまくいかなかった。役場に行けば、調べることができると言われ、この付近ではしこ名ではなく、小字が一般化していることがわかった。この砂子付近は圃場整備の土地改良事業が昭和48年に終了しているが、その前にも645年ほど前に耕地整理が行われており、そのころから小字が一般化し、しこ名が消えたようである。だから、近藤さんのもう1代ほど前の人でないと、しこ名がわからないということになるようだ。 近藤さんはさまざまな昔の資料を持ってきて見せてくださり、とてもうれしかった。

 この村でもやはり、農家の減少、田畑の減少がおこっているようだった。最初にこの村を見たとき、わりと商業化が進んでいる村だったので驚いたが、これからもさらに商業化が進んでいくだろう。このことはやはり、唐津バイパスが大きな要因のようだ。マリンセンターおさかな村も観光客で大変賑わっていた。生産物も、昔は米が中心だったのに、だんだんとハウスみかんなどのほかの作物の栽培も盛んになってきているようだ。りんごの栽培も行われているらしく、こんなに暖かい所でもりんごがとれるのかと驚いた。やはり、味は少し違うらしい。

これからも、まだまだいろんな変化が起こっていきそうな気がした。しこ名の収集はあまりできなかったが、その他の質問事項は全て聞き終わったので、お礼を言って、1500すぎ頃、近藤さんの家を後にした。帰りにまた村の中をいろいろ案内しながら走ってくれた。この辺の道は短すぎて名前を付けるほどのものでないと近藤さんの家で聞いてはいたが、ほんとに短くて道ではないようだったため、納得した。ビニールハウスがたくさんあり、中では花や野菜が栽培されていた。

唐津市との境界の道路を通り、「従是東対州領」の石柱を見せてくれた。「対」の字が「封」のようにみえた。一旦フラワーショップひれふりに戻ったが、まだ時間があったので、鏡山へ連れて行ってくれた。鏡山は別名「ひれふり山」というらしく、その由来は万葉集にあるということだった。重さんの経営するフラワーショップひれふりもこれにちなんだそうだ。途中で車を降り、そこから砂子周辺を見下ろした。虹の松原は思っていたよりもずっと大きかった。唐津湾に雲のかげがうつって2段階に青さが変わり、とても印象的だった。山の上から眺めると、水田と畑が牟田川を境に綺麗に分かれているのがはっきりわかった。また、水田、畑、11つも区画されていた。遠くまでよく見えて、最高の眺めだった。その後、さらに上の方へ登っていき、神社を見て降りてきた。もうすぐ唐津バイパスに出るという頃に、重さんに電話が入る。もうかなりの時間をいただいていたため、そろそろ現地調査を終了させなければと思い、そう告げると、「私用だから大丈夫」と、もう一度砂子の中を通って、マリンセンターおさかな村まで送ってくれた。もう4時になろうとしていた。重さんに心から厚く御礼を言って車を降りた。重さんは一生懸命質問に答えてくれたり、車でいろいろ案内してくれたりと、最初から最後までとてもいい人だった。おかげでとても楽しく現地調査をすることができた。とても充実した1日になったと思う。

 

1, 水利について

昔は横田川から流れてきた水が牟田川に流れ、その水を水車を使って引き上げていた。今現在は、松浦川から玉島川に流れてくる水をポンプを使い取り込んでいる。砂子は圃場整備が行われる前に、すでに1度耕地整理という大掛かりな農地改革が行われている。そのために、田は一応きちんとした 形になっていた。しかし圃場整備が行われたことにより、ポンプなどを利用することが可能になり、水の確保がとても楽になったということだ。そのような利点があったので、農家の人々も圃場整備に大賛成したのだそうだ。砂子では、水不足で悩むことはほとんどなかったため、水争いもほとんどなく、川上から順番に、田植えが終わったら水門をしめ、次の田へ流れるようにした。砂子は土地柄、田植えはいつも最後の方であった。

1994年に福岡を中心に水不足で困ったときも、さほど問題はなく、田植えはできたそうである。もし30年ほど前に、1994年のような水不足が起こったとしても、田植えが例年より1週間程度遅くなる程度ですむだろうということだった。

取り決めとしては、「井手上がり」というものがあった。井手上がりというのはもし水が不足してしまったなら、使うのをやめて、水が溜まったら使うようにすることだそうだ。また、人が使っていないときを見計らって使うようにしている

水利権はそこを利用する地域は、どこでも平等に持っていたと聞いた。

 

2, 耕地について

砂子では昔、トロッコや荷馬車などを使って、山から泥を積んできて、田をつくっていた。田では、馬や牛はぬかってしまうので使えなかったそうだ。機械などが導入される前は大変だっただろうと思う。

砂子は土地改良が行われた。土地改良が行われる前は、特産物は米とみかんであった。平原でとれるみかんの収穫量は全国レベルであった。しかし、土地改良が行われたあとでは、米のとれ高は減少し、みかんはハウスみかんに姿を変えてしまった。また圃場整備が行われる際に、田がかなり減少し、畑にかわった。畑では、くだものや野菜などが作られるようになった。砂子の田は、昔は肥料として満州から手に入れた大豆かすを主に使っていた。その他には裏作の残りを牛にしかせて肥料にしたものや、牛や馬などのフンなども利用していた。また、化学肥料を使うようになっても、収穫量は、それほど変わらないということだ。

砂子の田は住宅よりも高い地形にあったため、大雨が降ると、雨水が民家の方に流れてとても困る。そのため、田を有水地にかえて、水を防ぐような工夫もなされてきた。また起きたあたりでは、土地が低いため、水がたまりやすく、麦などをつくることはできなかったそうだ。

 

3, 祭祀について

砂子には、祭ってある神が主に3つあるということだった。宮崎東八方に火の神であるという秋葉様が祭ってある。それに加えて、近藤剛吉方の表に愛宕様がある。また同家の裏庭には、川原大明神様が祭ってある。

愛宕様は家周りで灯りをあげていたのだが、いつのまにかなくなっていたそうである。

 

4, その他に聞いたこと

1)      鏡山について

鏡山は別名「ひれふり」というそうだ。その由来を尋ねたところ、昔遣唐使やその他の理由などで、男性が遠くに行ってしまうときに、女性はかがみ山から手()をふって見送ったそうだ。それが「そでふり」となり、「そでふり」が変化して、「ひれふり」となったのだそうだ。二度と会えなくなるかもしれない男性を女性はどのような思い出見送ったのだろうか、ふとそんなことを思った。

2)12m道路について

砂子には12m道路と呼ばれている道路がある。12mというのは道路の長さではなくて、道路の幅が12mあるのだそうだ。実際にその道路を通ることはできなかったが、鏡山に登ったとき、砂子が一望でき、そのとき12m道路も見下ろすことが出来た。実際には12mもないだろうと思うが、よほど幅が広くて、そのような名がついたのだと思う。砂子の道路は耕地整理が行われた時点で今現在の形がほぼ出来上がっていたらしい。しこ名もそれ以前はあったのかもしれないが、今はほとんどないそうだ。だから道路などを呼ぶときは1号線とか2号線とかいうふうに「〜号線」と呼んでいるそうだ。また砂子の道路は一本一本の距離がとても短い。そういうこともあって名をつける必要があまりなかったのではないか、ともおっしゃっていた。

古道を通って、玉島や平原から砂子へみかんが運ばれていたとも言われた。

3)青年クラブについて

戦前もしくは戦後に青年クラブというものがあったそうだ。青年クラブとは若い青年が145人公民館に寝泊りしていて、火事が発生したり、泥棒が入ったりしたときに出動することを主な仕事としている。私たちが話をきいた近藤甚三さんも参加したそうである。この話をしているとき、近藤さんはとても生き生きとしていた。昔のことを思い出していたのであろう。

4)石柱について

鏡山のふもとに石柱が埋まっていたのを砂子の村の人々が発見した。その石柱は、とても価値のあるものだったので、当時の金額でいうと20円という大金で取引された。その石柱は現在、鏡山山頂に大切に祭られてあった。私たちは実際にそれを見ることが出来た。

5)浜玉町の名の由来について

浜玉町は浜崎町と玉島町が合併した町であった。しかし2つの町が合併する際にどちらの名をとるかでもめ事がおこった。結局しばらくは「浜崎・玉島町」という名になっていた。しかし、「浜崎・玉島町」では長すぎて書類などに書くときも不便であった。そのためそれぞれの町の頭文字だけをとり、浜玉町という名になったということである。

 

5, 村のこれからについて

砂子には53年に完成したバイパスが通っている。そのため田が次々と店などに変わっていき、商業がとても発達してきている。またバイパスから100mぐらいは田畑を埋め立ててもよいという許可がおりているので、ますます商業が発達することは間違いないであろう。その一方で、バイパスができたことにより、せっかく耕地整理や圃場整備などにより、ますます農業がやりやすくなってきたのに田畑が減少している。残念なことだ。その上、50戸前後あった農家も今では10戸以下まで減ってしまった。田も半分以上なくなっている。

農業としてさかえた砂子は商業町として変わってしまうのであろうか。



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