【東松浦郡呼子町大友】

「農村・山村を歩いて考える」 現地調査レポート

 

1LT97018 稲田俊一郎

1LT97039 小野 総一

 

調査地:呼子町 大友

調査日:12月23日

話者:井上 実さん

小峰 博美さん

深海 蔵さん

井上 忠さん

小島 源代司さん

平田 富蔵さん

 

 今回、服部先生の授業「農村・山村を歩いて考える」で割り当てられた呼子町の大友の現地調査を行った。噂どおりの(現地調査の日は毎年そうらしいが)厳しい寒さと風にみまわれた。

 

一日の行動記録

8:15 六本松に集合

バスで移動

10:20 現地到着

〜:30 調査範囲をまわり地理を覚える。

途中、大友遺跡を発見。海が汚い。ゴミは打ち上げられたものだろうか。

11:10 井上 実さん宅訪問

11:30 小峰 博美さん宅訪問

11:50 深海 蔵さん宅訪問

12:20 井上 忠さん宅訪問

12:50 昼食

13:00 アポを取っていた区長の小島 克己さん宅訪問

おばあさんに話を聞けるはずだったが、いきなり断られた。

ちなみに克己さんは亡くなっていた。

13:20 小島 源代司さん宅訪問

13:50 平田 富蔵さん宅訪問

15:30 集合場所へ

16:00 バスに乗って福岡へ

18:50 六本松到着

 

 

小字   しこ名    由来

藤川   岩の上

ナゴ坂    長い坂

小森

ノナ力

カワマツリ  川沿い

藤後(田)  藤川を挟んで「藤前」というのが鎮西町にある

畑ケ田  四升蒔き   種を蒔く量

八升蒔き   同上

丸田     形?

岩ん下

ツボンダ

(ムカエ 鎮西町 ツボンダと川を挟んで向かい側)

マオラン田  マオラン(ニューサイラン)が植えてあった

  マオラン:ユリ科の多年草、繊維植物

以上

 

 休日にもかかわらず、男の方はほとんど仕事に出かけていて大変苦労した。女の人たちは、自分の家の田のしこ名以外は余り知らないと言っていた。昔は牛で引いて行けていたが、現在、機械では行けなくなってしまい、もう何年も使ってない田があるという話を聞いたが、皮肉な話だ。

 

 

大友追跡等について

 最初に大友を歩いてまわったときに大友遺跡を発見した。遺跡といってもどこがそれであるかが分からないような荒れ地で、車も通っていた。調べたところ大友遺跡は弥生時代 (紀元前約300年〜後300年)の共同墓地で、埋葬が砂丘に行われていること、多種の埋葬形式があること、多数の人骨が検出されたことから有名な遺跡だそうだ。「墓地は、広い砂丘の中でも限定された地域に密に営まれている。埋葬形式には甕棺墓、箱式石棺墓、土コウ墓、配石墓等があり、これまでの発掘調査で100基以上が確認されている。墓の中から南海産のイモガイやゴボウラ製の貝輪、ガラスや碧玉製の玉類、石剣等の多数の副葬品が発見されている。以上のことから、大友遺跡は、弥生時代に航海や漁業を主とした人々の墓地ではないかと推測される」と大友遺跡の看板の記述にある。

 上述の通り、もう完全にただの荒れ地のように見え、残っているのは看板だけのようだったが、大友の人々はみんな遺跡の存在を知っていて、大友のことを調べたいという旨を伝えると、「遺跡は見たか?」と言われることも多かった。またそこら一帯には昔、塩田があったらしい。煉瓦造りの煙突が一本立っていて、(鎮西町のほうにもう一本あるらしいが)その名残を残していた。

 大友に残っている祭事について聞くと、昔は矢房神社で「オコモリ(?)」と呼ばれるものがあっていたらしいが、今では定期的なものは何もないらしい。

 

 

感想

 前にコア科目の服部先生の授業で一度太良の田代に現地調査に行ったことがあった。その時は老人の数が少なく、また5、60才の人でも、しこ名など知らないという方ばかりで結局しこ名を集めることはできなかった。今回も、しこ名を集めることはできたものの、老人の数はさらに少なく困難な作業には変わりはなかった。現在でも、こんなに昔のことを知る人が少ないのだから、20年後、30年後にはもうこういう調査は不可能になってしまうのではないだろうか。しこ名や祭事、水路の名前などは、書物にこそ残っていないが、生活の中から生まれ口で伝えられてきた、いわば一つの歴史だと私は思う。だとすると、この確実に消えていく歴史を記録するのはとても重要なことなのではないだろうか。

 アポを取っていないお宅の戸をたたいても、中に確実に人はいるのになかなか出てこないことがしばしばあった。カーテンの隙間から覗いてから出てくるおばさんもいた。やはり小野君のセールスマン風の黒いコートがいけなかったのだろうか。とにかく今回は前より聞き出すのが大変な気がした。しこ名とかそういうものが、「歴史」であるとは思っていないだろうし、その歴史の守護者は彼らのみだということなど、その知識は極めて日常的であるだけに、思ってもみないのだろう。今回の調査で、この消えゆく歴史を、他のいつでもなく今記録していくことはとても重要なことだと思った。



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